なんというか、撮影準備はするものの、撮影はできないという。ネタとしては盛りだくさんながら、やはり時と場所を選んだりするものなわけだ。
そういえば、レンズカルチャーから出品の催促が来るわけだが、そんなにぼくに撮影の歴史があるわけでもなく、はい出しますよと簡単に言えたものではない。いや、乗せられても無いものは無い。その昔、映像時代に催促に応じて痛い目を見たことがある。ボツ写真という方法もあるが、それも大してあるわけではない。ぼくの場合は、最初から撮るものを決めているのであり、だいたい失敗もしない。イメージできているなら、そういうことはあまり起こらないのだ。これは、アニメーションをやっていたことによる癖かもしれない。失敗すれば、下手をすれば数ヶ月の損失なのだ。一つあるのは微ブレ写真だが、そういうのは論外だ。
そういえば、ヤドカリの家の補足写真を撮りたいと思いながら数ヶ月。。何故かやる気が起きない。それよりベターなアイデアがあるからだが、一応完成させておいて良いものかもしれない。
あれは、ぼくの哲学的な背景を作品にしたものだが、出来としてはこれまでの作品より良いと思っている。ただ、地味かもしれないとも思っていた。
写真は、全体として、アートのようなものとしては、わりとデザイン的で商業主義的だと思ったが、地味かもと思ったのはそういう意味合いからだ。もの申したい事もけっこうあるが、仕方がない。そうではないものもあるのかもしれないが今のところ分からない。自分を曲げないためにも、それに合わせない事を心がけるだけである。実のところ、合わせない事は、非常に重要な要素だと思う。自分の物差しをフルに発揮すれば良いのだ。アートのようなものだとすれば破壊は重要な要素だ。それを行った人物こそが偉大と言われているのには意味がある。それがイメージの更新に繋がるからだ。批判はされてナンボの世界だろう。それが当たり前で無いほうがおかしい。チンケな成長にも繋がらないものはいらないが。
補足としては、あと数点あったほうが良いのは確かだ。複数枚で意味を循環させている作品なので10枚では意味が希薄だ。世界観の構築にはあと何枚か必要だ。ただそれはフィルムを使うので面倒くさがっているわけで、どうしたものかと悩んでいたりする。