ぼくのパートナーは、弱者に優しい。
コンビニで、あるお婆さんが、支払い時にお金が百数十円の足りなくてパニックになり、その反応に若い店員もパニックに陥っていたわけだけど、代わりにお金を支払い、店員はお婆さんの荷物を運び、事なきを得た。
こういうことは、案外多くの人はスルーなのだが、パートナーはそうではない。
多くの人の場合、日常的出来事ではない場合、どにようにすれば分からず、見て見ぬふりをする。これは、村の慣習に浸りきった日本人においては顕著だと思う。見も知らぬ他者、つまり「よそ者」に対する共感能力も薄いというのもある。
パートナーには、独自の価値観があって、社会の一般には当てはまらない。世の中で「そういうことになっている」いわゆるステレオタイプにも陥っていない。
たぶん、そこが良いのだろう。
ぼくは、自らの素性を晒すことで、他者のもつステレオタイプを確認している。「仲間ではない」という反応、つまるところ、そういうステレオタイプを人は本能的に持っていて、社会において識別する習性があるのだが、これは「蟻」が持つ匂いによる識別、つまりそういうステレオタイプの認識に非常に近いものだ。
実のところ、人間の行動の9割以上は本能によるものだ。例えば、注射をある人種に打つ場合、同じ肌の色の人種に対しての痛みに関する共感というものが、他の人種に対するものよりも高い事が、脳の活性度合いを見る実験で分かっている。これは、自らにはそういう偏見が無いと思っている人でさえ、脳はそのように反応する。少々寂しい事だが事実だ。それが蟻と同様の「匂い」による「仲間」の認識の一つなわけだ。
その「匂い」を共有する群れというものを、ばくはマジョリティー的なものとして認識していると思う。それが、社会において、多いか少ないか?は大きな問題ではなく、極端に少ない場合を除いて、そのように感じてきた。
ここまでの認識が、ぼくの今後の行動に繋がってくると思う。
おそらく、それでも、それを乗り越えるために知性というものがある。それによって、人間が「蟻」を越えられるのかどうか?の鍵になるのではないか?と思うことにしている。