2024年01月31日

モノクロ専用機の画像をRAW現像

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ここ最近、このブログをあまりにもサボっているのですが、別のブログ、超画伯の写真漂流記のほうは最近更新しました。
わりと有用な情報があるかと思いますので是非見てください。

フリーの高機能現像ソフト RawTherapee 5.9 を使う

 

現像ソフト RawTherapee or ART で、モノクロ専用機 PENTAX K-3 MarkV Monochrome の RAW画像編集

posted by 超画伯 at 17:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 写真日記

2022年12月02日

大仕事終える

この数ヶ月間、色々と大変だったのですが、とりあえず、ぼくのワークの一つが一区切り。
この2ヶ月ほどは、特に大変でした。
今年の3月からだったので8ヶ月ぐらい費やしたでしょうか?
その間、色々な人とも会えて、面白い日々でした。関わった人々、けっこう頑張ってますね。お互いに高めあっていきたいところ。
残りは来年が主になるでしょうかね?


posted by 超画伯 at 01:08| Comment(4) | TrackBack(0) | 写真日記

2022年10月20日

制作中 実は、疲労でしばらく止まっていたのだけど

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Ants+ の制作は、長期取材の疲労のため、しばらく休んでいたのですが、そろそろ制作しないストレスが溜まってきたので開始です。いえ、制作しないと、それはそれで死にたくなるわけです。制作しても死にそうになり、制作しなかったら死にたくなる。本当に困ったもんですね。
今回の作品に関しては、コンペとか度外視ですね。通る目的でしない予定。というのも、そういうのも邪念が入るからです。基盤の無いぼくがコンペを基準にしないというのは、けっこうしんどいと言えばしんどいです。ただ通すだけなら、いつでもできるんです。ですがね、FUNIさんとの交流で得たイメージを極限まで澄んだものにしたいわけです。実際、良い作品が出来つつあると思うんですよね。いや、これはFUNIさんのおかげですよ。
おそらくですが、異なる視点を持った異ジャンルの人、それも懐の深い人物とでも言いましょうか、そういう方々との制作は、必ず良いものになるという印象です。相乗効果とでも言いましょうか?
つまんない人というか奥行きの無い人と関わると、正直作品の質は落ちると思う。人間は、良いほうにも悪いほうにも引っ張られるわけですよ。
これまで、散々裏工作されたり、なぜかカルト集団(マルチ)に圧力かけられたりで、それでもそういう所に考えを合わせなかったわけですが、気持ち悪い笑顔の裏側には悪意しかなかったわけですよ。というか、なんでマルチが群れて偉そうにしてるのか?業務停止食らうような連中ですよ?こういう輩は、ぼく本人に通じないと思ったら、身近な人を攻撃してくる。いや、こういうのが今まで通用してきたのが田舎のアートなわけですよ。しがらみとしても酷い。
ともかく、きちんと制作、チンピラはガン無視で良い。そういう悪意をそらす事ができるようになるのが課題。
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2022年08月26日

写神論

ぼく、写真論とか読んでも、さっぱり意味が分からないのですが、冷静に考えると、ぼくは絵画論のほうを使って写真を撮ってるのかもしれません。基本的にあるのが、視覚的に考えれば、一生の中で二度と同じものを見ることが無いという感じで、画像処理をするとしても、同じパターンを複数個所に使うことを避けております。これは手間はかかるのかもしれませんが、視覚情報を自然に伝えるという意味では正しいと思っております。見れば分かるのですが、明らかに情報量が多いです。
絵画というもの、例えば具象で描く場合、ぼくの場合は過去のパターンの踏襲というものを避けます。こうすれば感じが良かったということは除外するということです。そのほうが、右脳は意外にも活発に動き、むしろ楽に制作することができます。
あとですが、光のパターンというものは無限にあるのですが、その中でなにを美しいと見ているのか?は重要な点でしょうか?これを物体として捉えると「花」とかそういったものになるのでしょうが、それは言葉の定義のようなもので、「花」=美しいものという刷り込み、或いはそう教わった記憶だったりで、光の美しさとは、実のところまた異なるものだったりします。
では、どうみれば美しい部分を見分けることができるのか?に関しては、直観によるところが多いかと思いますが、例えばその直観力が乏しい場合は、それを見分ける理論というものも存在すると思います。まぁ、そこは秘密なんですけどね。
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2022年08月02日

色々と失望

もうそろそろ書いても良いかと思うが、ぼくは写真文化というものに対して失望している。もはや隠そうとも思わないが、メディアとしての写真の可能性もあることから、写真を扱うことそのものは続けるだろう。
ぼくが、その写真というものに対して最初に失望したのは、初めて東京都写真美術館に入った時の事だ。弱弱しい報道写真を崇めているのだ。「なめてんのか?」事実は、もっと優れた写真はあるのかもしれない。しかし、チョイスはどうしようもないと感じるものだった。
写真に未来はあるか?という問いに答えなければならないが、いわゆる今日的な写真村でいうところの写真などはとっくに終わっているという認識だ。これが認識できないとしたら重症だと思う。いわゆる言論や表現として終わっているということだ。
もし表現としての誇りを少しでも持っているのならば、くだらない村とかそういうものに対しての忖度をやめ、そこから他の世界を目指すべきとしか言いようがない。内部でのロンダリングに他ならず、そういうものをオタクイズムと言うのだ。思考停止のキモいカルト、うちでは写真宗と言うようになった。もっと社会と向き合えということだ。それが出来ないのであれば忌むべき文化であり、表現の敵だと言ってもよい。作品の価格を第一義にしてしまったアートしかり、このようなものは、文化に腐敗しかもたらさない。いや、このルールこそが世の中を滅ぼすだろう。価格そのものが悪いと言っているのではない、そこにしか価値を見出せないことを指して言っている。 そのようなものを崇めている評論家も糞である。知人だろうが、大好きな「言葉」とやらで正面から叩き潰してやる。
この腐った世の中を見てみろ。ごたくはいいから、今の世の中を見ろと言ってるんだ。
この数十年は、言論・表現の敗北でしかなかった。その結果として、世の中は暴力でしか変わらないということを証明してしまった。そのラインまで後退してはならなかったのだ。
言論。表現を取り戻すべし。それが通用しない世界では、世の中は暴力によってしか変化しないということだ。法(言葉)になど、何の力も無いことを証明してしまう世の中ということだ。        
なぜ、ぼくが多くの表現手法を扱うようになっているのか?に関しては、その表現そのものに忖度しないという意思の表れでもある。ぼくがただひょうひょうとそれをやっていると思ったら大きな間違いだ。
今時こういうことを言うのはダサいと言われるが、ダサくて良い。物事の本質をいつまでもごまかせると思うな。
パートナーに、攻撃内容を聞いた。ぼくは攻撃されていたようだ。差別主義者、言論封じ許すまじ。完膚なきまで叩き潰す。それは結果を持ってしてだ。芯無き者が、芯のあるものと同列に戦えると思うな、卑怯者め。
posted by 超画伯 at 02:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 写真日記