もうそろそろ書いても良いかと思うが、ぼくは写真文化というものに対して失望している。もはや隠そうとも思わないが、メディアとしての写真の可能性もあることから、写真を扱うことそのものは続けるだろう。
ぼくが、その写真というものに対して最初に失望したのは、初めて東京都写真美術館に入った時の事だ。弱弱しい報道写真を崇めているのだ。「なめてんのか?」事実は、もっと優れた写真はあるのかもしれない。しかし、チョイスはどうしようもないと感じるものだった。
写真に未来はあるか?という問いに答えなければならないが、いわゆる今日的な写真村でいうところの写真などはとっくに終わっているという認識だ。これが認識できないとしたら重症だと思う。いわゆる言論や表現として終わっているということだ。
もし表現としての誇りを少しでも持っているのならば、くだらない村とかそういうものに対しての忖度をやめ、そこから他の世界を目指すべきとしか言いようがない。内部でのロンダリングに他ならず、そういうものをオタクイズムと言うのだ。思考停止のキモいカルト、うちでは写真宗と言うようになった。もっと社会と向き合えということだ。それが出来ないのであれば忌むべき文化であり、表現の敵だと言ってもよい。作品の価格を第一義にしてしまったアートしかり、このようなものは、文化に腐敗しかもたらさない。いや、このルールこそが世の中を滅ぼすだろう。価格そのものが悪いと言っているのではない、そこにしか価値を見出せないことを指して言っている。 そのようなものを崇めている評論家も糞である。知人だろうが、大好きな「言葉」とやらで正面から叩き潰してやる。
この腐った世の中を見てみろ。ごたくはいいから、今の世の中を見ろと言ってるんだ。
この数十年は、言論・表現の敗北でしかなかった。その結果として、世の中は暴力でしか変わらないということを証明してしまった。そのラインまで後退してはならなかったのだ。
言論。表現を取り戻すべし。それが通用しない世界では、世の中は暴力によってしか変化しないということだ。法(言葉)になど、何の力も無いことを証明してしまう世の中ということだ。
なぜ、ぼくが多くの表現手法を扱うようになっているのか?に関しては、その表現そのものに忖度しないという意思の表れでもある。ぼくがただひょうひょうとそれをやっていると思ったら大きな間違いだ。
今時こういうことを言うのはダサいと言われるが、ダサくて良い。物事の本質をいつまでもごまかせると思うな。
パートナーに、攻撃内容を聞いた。ぼくは攻撃されていたようだ。差別主義者、言論封じ許すまじ。完膚なきまで叩き潰す。それは結果を持ってしてだ。芯無き者が、芯のあるものと同列に戦えると思うな、卑怯者め。