2015年02月24日

曖昧なポジション

スナップショット000005.png

作品”天使モドキ”に関することですが、この作品は映像作品としては非常に曖昧なポジションにあるような気がします。
あえてそうしたわけですが、実験映像としても曖昧ですし、劇映画よのうなものとしても曖昧
つまるところ狙いどころがそこではないわけで、ポジションに関して説明するのに苦労します。
思うに、実験映像というのも、実験映像というジャンルであって、もはや伝統様式のようなものがあるような気がします。
つまるところ、最新の何かを提示する必要があるジャンルだと思うのですが、全体的に古めかしくて、正直実験しているようには思えないのです。
かつて、実験している映像があって、それを継承した映像を実験映像と言っているというのが実情だと思います。
そして、それを選考する人も、実の所新しい何かを見つける意識は希薄だと思うのです。
posted by 超画伯 at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年01月01日

あけましておめでとうございます

ひつじ02.jpg

今年も、よろしくおねがいいたします。
posted by 超画伯 at 11:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2014年12月31日

つくるものだけつくっておいた

ひつじ03.jpg
簡単に来年の干支、羊など作っておきました
今年も終わりだなぁ
posted by 超画伯 at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2014年11月28日

地域向け”ゆとり”プログラム

よく考えたら、コミュニティーアートとかって、大人も含めた、地域向け”ゆとり教育”プログラムでもあるよな・・
名目上、教育プログラムということにはならないけど、明かにその匂いを感じるんだよな
特に作品とかゆとってて痛々しいかぎりだ
本当は、そういう地域がゆとる余裕なんて無いわけだが、サブリミナルによって洗脳されるというのもなんだな
思うに、やっていることを見れば、地域においては、祭りにとって変わるようなものというか、祭りのようなものとして受け入れられている感じがある・・
しかし、無礼講の無い祭りでもある・・そのあたりは、しっかりアートとしての属性を引き継いでいるのである
西洋の進んだ文化として、アートによるコミュニケーションを挙げる人は多いけど、コミュニティーにおけるそういうものは、日本には優れた祭りという文化がある・・無礼講の祭りがもたらしたものといえば、緩やかな平等意識だろう・・
そして、無礼講は少々のことを言っても許される文化である
これは階級というものを是正する力として働いてきたと思う
そして、無礼講のない祭り・・これの指す意味というのが見えてくるのだけれど、それは階級制度・・
西洋の進んだ文化というのは階級制度?

以上フェイスブックに書いた記事のコピペ
posted by 超画伯 at 15:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2014年11月25日

思考の流動性

良い言葉に意味がある時期があった
今は、そればかりになり効力を失ってしまった
思考というものは流動性があると思う
一般的に良いと思われる事柄、言葉、モノ
それすらも、長く居座れば淀み悪霊が取り憑き腐敗する
今までと違って良いことなのに何故?
もはや通用しない過去にすがっても腐敗はとまらない・・良いものも腐敗すれば、それはかつて良いものだったというだけのものになってしまう

今日フェレットの茶太郎が死んだ
彼は、死ぬ数時間前まで遊び続けた
善意も悪意も無く、個の幸せのために食べ遊ぶ
人間に飼われる不幸も、生まれてすぐ去勢された不幸も知らない、体の中に致命的な要素があることを知ることも無ければ不安がることもない
人間と違い、常に現在を生きて、完全な幸せの中で生きた
posted by 超画伯 at 19:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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