2018年11月29日

とてつもない日本の劣化

ネット黎明期から十数年ぐらい、ネットでは日本は素晴らしい!
とか、やたらとキャンペーンがあったように思う。
何故か比較対象は韓国だったような。。
その、しつこいまでのキャンペーンの結果、人はそちら側になびき、テレビも雑誌も日本凄い一辺倒。。つまり、日本のすべてが素晴らしく、その国の一員である皆さんはすべて素晴らしいのだ。
結果、勘違いした連中が、月まで登るような勢いで調子に乗る有り様だ。

正直、きちんと頑張っている人を誉めることは重要な話だ。なんだがこの国は少し違う。そういうキャンペーンをすれば誰でも誉めてしまうのだ。
結果、なんの努力もしない連中まで有頂天になり、更にその輪は広がり、多くの人がそちらに流れれば雪崩をうつように流れ、悲惨な有り様になっているように思える。

世の中を観察してみる。
何故かアホなふりをする人が実に多い。特に女性だ。どうやらそれが可愛いことになっているらしく、それを支えるのはそういった女を好むアホな男がいるからというのもあるだろう。
おそらく、賢い女性とかプレッシャーで、自分の方が劣っていそうでプライドが傷つくのか嫌なのだろうと推測する。
しかし、アホと話して楽しいだろうか?少なくとも退屈で仕方ないだろう。アホのふりなどせず普通にしている方が良いに決まっていると思うんだが?アホを重宝するとか、アホ以外の何者ではないだろう。これは、アホとアホの共依存かもしれない。
当然、女も日本人だ、皆同じでなければならないわけで、そうなるとアホばかりでなければならない、賢い女など許せない。そうなれば賢い女もアホなふりをしなければならない。
男が相手なら、差別問題を引き合いに出せるかもしれないが、同性ならば、そうはいかないだろう。
そうしているうちに本当にアホになってしまうのかもしれない。

そして、そのアホ行為を推奨するTVとかの女性言論人。そう昔不倫してた婆さんのあまさんとかが不倫推奨とかしてるあれだ。
思うんだが、そういうことを本人が自分の責任で行うのはまぁ仕方がない。だが、その影響力を駆使して推奨するとかどうなんだ?自分がやってたからOKって、つまり自己肯定含むと思うんだが、なんか違うと思うんだが。。
そういえば、別件だが、十年そこら昔には、やたらとネットに女が風俗嬢を尊敬するとか書いてたもんだ。残念ながら、これは日本人には言ってはならない発言だったように思われる。現在はかなり勘違いされた価値観として定着してしまったように思う。そんなこと言ったら、アホほど月まで登ってしまうのが日本人だ。当然ながら、きちんとした哲学なんかもっているわけもないだろう。そもそもそんなの持ってたら嫌われる。
しかし、そういうのはやはり、ある種のリスクはあるべきだし、人目をはばかるものだろう。快楽主義でリスクもなく、恥もなく立派で尊敬の対象って。。そんな経験一度も無いわ。羨ましい。そりゃモラルも崩れますわ。
それらの波状攻勢で、世の中のビッチ化は、もはやとどまることを知らない。

ダメなやつが、早くこっちにきて楽になれよ!とかいうゾンビ化現象が実に増えてしまった。堕落とかって自慢できるものでもなければ、人に推奨できるものでもないと思うんだが?
勝手に堕落するのであれば、それは多いに結構だと思うが。

やたらと逃げることを推奨してるのも違和感だ。逃げを推奨しても、逃げないやつは逃げない。しかしながら、今の日本の有り様では少しでもその気がある連中は、雪崩をうって逃げるだろう。
そうなれば、逃げない人間には、更にしわ寄せがきて、それこそ過労死するかもしれない。そう、そういった人間は推奨しても逃げず、破滅する可能性は更にアップするだろう。
逃げるべき人間は、結局は逃げない。その人に逃げろと言っても無駄に等しい。
逃げるのは、もともとその可能性があったやつばかりだろう。

皆、楽なほうに逃げるのがもはや常態化しつつある。それが一般化すれば、破綻するまで止まらないのが日本人だ。ひねくれ者や日陰者や変人以外は皆そちらに流れるのだ。
当然TVや雑誌は人に見られないと商売にならないから、楽で気分のよくなることしか流さないだろうし、人が楽で気分が良くなることを言わないと言論人にも人がついてこない。結果として、楽を推奨する言論が当然支持されるだろう。
厚底靴の流行のように、これは破綻するまで止まらないのかもしれない。
つまるところ、社会の破綻だ。
「これって今の流行りだから」って決め台詞なんだろうな。印籠みたいなもんだ。

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2018年11月24日

人は格言を好む

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以前から思う事ですが、ぼくが話をするとして、人は格言を求めていると思います。
何かをするとして、その行動の大義名分も必要らしい。
例えば、作品トークの時に、永瀬清子は根っからの平和主義者であると断定する発言を求められたときに、ぼくは、分かりませんと答えました。
人には側面がありますし、永瀬清子が戦争当時に戦争を反対しなかった事は事実で、肯定するような詩もあったらしい。戦後の戦争反対というのは、それが許された世の中でのものです。だからと言って、平和主義者ではないとも断定はできません。その時代によって、平和の概念というものは異なるわけで、現在の価値観のみで、本人が平和を求めていたか否かは分からないのです。当然ながら、ある程度生きている方ならば、ある時代、良いとされていたことが、実は悪いことだったという出来事の経験ぐらいはあると思います。それも、また逆転するかもしれません。
なので、「永瀬清子は根っからの平和主義者だ!」「平和とは、このような行動をすることだ!」とは言う事はできませんでした。そういうことは断定せず、何かをつくるという意味でも、常に考えていたいとも思います。
基本的に嘘は綻びが生じるので、作品については極力言わないようにしていますが、個人的に格言らしきものは持っておらず、そのような発言は出来ないわけです。
ですが、格言が重要な事は分からないでもなく、その格言を聞いたところで、人は物事を考えなくてもすむようになります。ある種の出来事や、人物像、思想的なものは、そこで固めることが出来ます。
最も重要な事は、そこで何かを考えなくても良くなることだと思います。
善悪の概念もしかりで、その善悪の定義が固まっていれば、そこからは何も考えなくても、それに従えば良いわけです。事実として起こりうる弊害については、誰も考えなくても良いわけです。
常に物事を考えることは不安が付きまといますので、そこで思考を停止させてくれる発言があれば、問題は解決された気分になれます。格言にはそういった意味もあるように思いますし、故に権威ある、もしくはありそうな人が言う事に意味があるのでしょう。
ですが、問題としては、それでは破壊と創造というものは出来ないわけで、新たな考えを導きだすこともできません。
思うことは、この格言でガチガチに固められた世の中というものは、変化よりも維持する力のほうがはるかに強いということ。
流れとしては、現在の格言の力として、商業の力が圧倒的に強いということ。そして、彼らの格言によって、実は、ほとんどの人たちが生きにくい世の中が維持されているということでしょうか。
しかしながら、その格言は多くの人たちを救うことは、おそらくは無いということは、薄々知られていくことのように思います。
格言の主を支えるために、その格言に乗っているだけであり、馬車馬のように働いても、ほとんどの場合、その対価はいつになっても帰ってはこないでしょう。
そういうピラミッドを形成して、現在の形を維持しているように見えます。その維持しているものとはトップの安泰であり、搾取のテクニックのようにも思えたりします。

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2018年11月16日

リストカットシンデレラ

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今日は体を動かすことができず、たまたま置いてあった本を読んでみた。
春崎代さんの”リストカットシンデレラ”という本だ。
関係ないことだが、ぼくは、この作者が描いた絵のTシャツを時々着ている。
まだ、全部は読んでいないが、主人公の記憶のある限りの幼少時代〜青年期のことを前半は描いている。
いくらかの家庭ならばむかえるであろう、家庭の問題、とか自分の嘘のこととか、色々と書いている。

時系列が突然飛ぶので、家族が突然離れていたり、仲良くしていたりなんだが、とても素直な文体で胸を打つ。
個人的に驚くのは、幼少の記憶だ。
ぼくには、そのようなものは、ほとんど残っていないのだ。
おそらく、ぼくは幼いころは家族に恵まれていて、普通の日々を生きていた。しかし、それは自分の脳内でだけそうだったのであって、偽の記憶かもしれない。事実としては、普通の教室と特別教室を行き来していた。知的障害ではなかったが、普通ではないと学校から認識されていたからだ。
幼稚園時代の先生も、今まで見てきた中でも一番変わっていたと言っている。やることが、ことごとく他人と異なっていたらしい。
ぼくは2016年に自閉症であることを検査で知った。あと、聴力による重度の学習障害を持っていて視覚に関しても、ある程度そうだ。その前の診断では双極性障害の診断を受けていて、それよりずっと前は適応障害の診断で、ADHDを告げられていた。
個人的には、2017年を最後に躁状態にはなっていないと思う。その年の秋ごろに倒れ、それまでは頻繁だった。今では疲れてしまって、チックに悩まされている。

それは、まぁよい
主人公は、作者である本人だ、若いころにある色々な家族の問題や色々な感情は多くの人が共感できるというか、多かれ少なかれ、生きていく上では色々とある。
ここで重要な事は、主人公の恋愛対象は同姓だということ。
多くの人は、自分と違うものに感しては、おそらく共感はしない、というか奇異の目で見るか、関りを持ちたくないか、或いは見えないふりをするか・・その事は、よく知っている。
ぼくの場合は、恋愛対象は異性なので、その点では多数派なのだ。当然ながら、男に告白されても、すぐに断るだろう。
一つ分かることがあるとすれば自分にとっての世界というのは、自分を通して見えた世界であること。これは誰だってそうだ。同性が好きだということは、その体と脳が、そうだと判断しているし、それが正しい事実だということだ。体感する世界というものは、平均はどうであれ、それぞれに異なっている。
世の中というものは、基本的に多数派のために出来ている。例えば少数派の左利きのための機材がほとんど売られていない事からしてもそう。
その多数派の世界と、自分から見た世界のギャップだろう。
そこで、一人の少女が悩んでいるところまで、今のところ読んでいる。
感じたことは、主人公の感性は非常に女性的なこと。自分は男だが、その感性は男には見えず、明らかに女性に見える。つまるところ、女性として女性が恋愛対象という感じに見える。
その感情表現が女性的で、理屈や予定調和などではなく、ダイレクトに心を打つ。

表現というのは、やむにやまれず、身から出てくるものだと思っている。それは、排泄のようなもので、ある意味仕方のないことだ。そうしないと、生きていけないし、どうにもならないから。
何かにカッコいい目標を立てて、未来を指標し、「世の中のために作ります!」というのは、今の世相だと思うし、そういったスマートなものを多くの人は好むし。ある種、企業セミナーに近いような事を言っていれば、自分もそういう意識の高いカッコいい人間なんだよ!と多くの人は称賛するかもしれない。TVやネットや本で垂れ流され、そう洗脳されているし、そういうアンテナに引っかかる。その中で、笑いや、お涙頂戴のテクニックをマニュアル通りに使い、それを笑ったり泣いたりする。それも成功の道しるべだと信じている。普遍ではなくブームだと気が付いていない。約束なんか守らなくていいし、皆次のブームに行くのだから何かの達成など嘘でも良いのだ。本気ではないから、皆すぐに忘れる。

ぼくのマイノリティー要素があるとすれば、自閉症だろう。この体から見た世界は、そういったものは虚構の世界に見える。世の中はそんな善意で動いていない。多くの人は、ぼくに近寄ろうとはしない。奇異の目で見ている。
近寄ってきてくれる人は、排泄物を垂れ流している。ぼくの仲間は排泄物を垂れ流している。臭いものに蓋などさせたくない。
承認欲求があるとして、そんな嘘で良いのか?嘘偽りがそれほどカッコいいだろうか?虚像を自己に投影しているならば、そういう嘘体質こそが自分だという事なのか?自分は正しい良い人だと演出すれば、人はそう信じるのかもしれない。
所詮、この世は馬子にも衣裳の世界だ。そうなのかもしれない。
しかし、ぼくは排泄物のほうが好きなのだ。そして、その排泄物の多い世界こそが豊かな世界だと思っている。

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口内炎と腹痛

1日動くと、すぐに体調を崩してしまうのですが、ここ1週間ぐらい口内炎が治りません。しかし、口内炎と思っているだけで、何か違う気もします。リンパは腫れています。
あと、食事をすると腹痛を起こしてしまいます。
食欲が無いわけではありませんが、歩くのはしんどい状態・・
自閉症は、脳内バランスが悪いので、ビタミンやミネラルを多めに消耗するらしい。
そういうのも足りないのかもしれません。
今年は原因不明の多尿で、脱水症状(おそらく心因性)で死にかけたこともあり、あの異様なまでの苦しさをリピートはしたくないので、死にたいとは思いませんが、生きるのがしんどいです。
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2018年10月26日

テレビもネットもつまらない、外に出たほうが良い もちろん病院からも

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福山の”さんいちラーメン”

今年の前半期は病院で入院でした。けっこうな長期入院なわけですが、そこでの唯一の娯楽はテレビだったように思われます。
当然、脳の病気であるのだから、不安で仕方がない状況・・
世の中で、自分は鬱病とか言いまわって普通に歩き回っている人は、まず嘘をついている可能性が高いです。正直そのような余裕がある病気ではありません。常に死と隣り合わせという感じの精神状態であるということです。
そんな精神状態もあるかとは思いますが、テレビは苦痛以外の何物でもありませんでした。
ただ、オッサンたちはひたすらそれを見るわけです。
毎日同じようなドラマばかり・・
頭が固まっているから、同じようなものばかりでも良いのかもしれません・・
どちらかと言えば女性のほうが会話をしていて、その中に入ったほうが面白かった。
もちろん、話すのは一般的な常識の範疇の話がほとんどですが、それでも、何か意思のある話のほうが面白いという感じでした。
人間関係は、退院するまでの一時的な関係にすぎません。だからか分かりませんが、今の妙に相手の顔色ばかり伺うような、ある意味ネットの”いいね”の弊害で得られるような、気持ち悪い人間関係はありませんでした。
まぁ”いいね”なんてのを毎度他人に求めるような人間関係というのも、ある種の疾患かもしれませんが・・”いいね”を入れたのに返ってこないと不安がる人間とか、どれほど多いのでしょう?中には裏切られたと、心の中では発狂している人もいるようですが・・
面倒くさいから”いいね”する・・多くの人も同じようにその行為を行う・・それで”いいね”が多く集まっているから、その人が人気だと勘違いする人まで出てくる・・
まぁ、虚構の世界なのだと思われます。
監視し合う社会が出来上がるので、見出しの似たようなサイトばかりになってしまいました。そして浅い・・

病院の中には若者も多く、毎日青春?の悩みを打ち明けていました。あまりに仲良くしすぎるから、「他人との距離感も必要ですよ?」というような話もしました。というのも、その距離感の無さから、すぐに他人への遠慮というものが無くなって、他人の領域に入り、最終的には関係をこじらせるわけです。まぁ、これは経験値の無さ故なのでしょうが、翌日には会う必要があるわけで、誰かが取り持って仲直りをしていました。
誰かが退院する時には、お別れ会もしていましたし、ぼくも参加していました。
とりあえず、それで関係は終わるわけですが・・

次は誰なのか?というのは、誰も分からず、数日前に退院というものは決まったりします。
ぼくの場合は、最低三か月は必要と言われていましたが、あまりの退屈さから、いつ退院できるのかを心待ちにしていました。もちろん、外に出るほどの耐性は、自分には無いものの、出てやらなければならない事が沢山あると感じていて、一刻も早く出るために、自分の症状を軽めに報告していました。
それでも、精神の混乱というものを、自分でコントロールすることが出来ないのが病気なわけで、苦しくなって薬を頼みに行く日々が続くのだから、そのあたりは見破られていたのかもしれません。

病院で一緒に過ごす人たちは、明らかに発達障害の人もいますが、いわゆる普通の人たちです。外の世界と基本的には同じような構成です。なので、ある意味ぼくなんかはかなり異端の存在のようで、あまり常識的ではなかったようです。一般的な楽しみを楽しく思わないわけですから。もちろん、ぼくが面白いと思うようなことは、あまり理解されないわけです。
情報量が少なくて退屈で死にそうですが、他の人たちは、そこまでではないようでした。
まぁ多動は、退屈はきついですよね。
しかしながら、その退屈さも治療の一環で、脳を休めるためには重要な事だったようです。
初期は、自殺防止のために独房のような部屋に入って、紐のようなものは、一切没収されたのです。本当に何も無い部屋でしたし、入院時インフルエンザにも患っていたので、完全に隔離されて、外からカギをかけられていました。
そこで、無限のように思われる時間を過ごした後、外のロビーに出られるようになります。
ここからが人間関係の始まりですが、考えてみれば、それはありがたいものだったのです。
それまでは、看護師や医者の先生が入ってくるのが、唯一の救いの時間だったわけです。

その後、ぼくも退院したわけですが、それは数日前に知らされていました。ぼくは、一緒にいた人たちには告げず、そっと出ることにしました。

退院後ですが、結局のところ、ぼくは無力でした、ピンポイントでは動きましたが、PCを使っての作業など、とても出来る状態ではなく、日々恐怖感と戦う日々・・
軽めの申告をして、早く出ようとしていたわけですが、当然歪のようなものが出てきます。すでにあるものを使って、同じような事を淡々とすることは可能でしたが、何かを新たに出力することは無理でした。
この状態は、今年の8月ぐらいまでは続いたのです。
今も以前より、遥かに弱い・・

外の世界に出ても、実のところ、世の中の単調さは、実は変わらないということに気が付きます。
決まりきったものばかりが、世の中では許されているわけで、そうではないものは、基本許されないわけです。それを、つまらないと嘆く人も多くいるのですが、そういった人たちも、基本自分と違う存在を許さないわけで、そういう人々がこの世界を維持しているのだなと思いました。

外に出たのだから、外食も楽しみたい・・人の紹介が無い店に行くのも面白い。
写真の話をしますと、このラーメンは、普通に美味しいのです。福山という土地にあっては、珍しいタイプの味で、しかしながら、岡山にあっては馴染みのある味です。
いわゆる”中華そば”というジャンルなわけです。
個人的に、福山のラーメンの味は濃い過ぎて、攻撃的であまり食べられませんでした。というのも、その濃さが腹痛を起こすわけです。ほとんどは、九州の豚骨ラーメンか、尾道ラーメンという構成です。
工業都市ならではの味の濃さなのかもしれないとも思っていました。もちろん美味しいものは美味しい。
もちろん岡山にもそのタイプの味はあって、食べ慣れてはいますが、それで体調を崩してからは行かなくなりました。
汗をかいたり、カロリーを消費する人たちの食事なわけで、皆それに慣れているのでしょう。
ただ、時代は変わりましたが、幼いころからの味を人は継承するのかもしれません。
ぼくは、基本的に珍しい味や新しい味を好むタイプなので、外国に行ったりしたら、まず日本食は食べません。まぁ腹はこわしますが、長期いるわけではないので気にしないのです。

岡山の中華そばの味は、少し甘い感じがするらしく、岡山に客人が来た時に連れていくと、甘みが強いんだねと言われたりします。
そうなのか・・と思うわけですが、基本ぼくの友人は、色々なものを食べることが出来る人が多いです。要は開拓脳なのだと思っています。基本新しい情報を求めているわけです。
個人的な経験ですが、食べれる味の幅の狭い人が持っている情報量は少ないという印象を持っています。警戒心が強く、違う世界に興味が無いし、入っても浅い・・すでに認知されている物事しか興味を示さないという感じで・・しかし、そういう人たちの言う不満の声は大きいのです。
たまたま、そういう人に会っているだけなのかもしれませんが、こんな感想を持っています。

しかし、尾道ラーメンじゃなければラーメンじゃないという感覚までになると違和感を覚えるのです。これは狭すぎるのでどうにかしてほしいという感じですが、そういう力がその土地の現状を維持しているとも言えます。
思うに、世の中は、変える力より、維持する力のほうが圧倒的に強いのです。
それが豊かな世の中ではなくても良いのでしょう。

個人的には、尾道ラーメンも美味しいけど、中華そばも美味しいですよ?
と言いたいわけです。
これも一種の豊かさですし、楽しみの選択肢だって増えているわけですから。

posted by 超画伯 at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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