2021年11月19日

頑張りすぎないという努力

たぶんなんだが、ある意味ぼくは頑張りすぎなのだろうと思う。というか動きだしたら止まれなくなるので、結果としてはそうなるのである。べつに、頑張るつもりなど最初から無いのだ。これは、完全に性質の問題であって、どうにかするにも、かなり気合いが必要というか、学習力が無いので、いつも頑張っていないと嘆いている。
しかし、疲弊した体と頭だけが、何かを証明しているわけで、そうなっている場合は注意しないと危険なわけだ。
どうすれば良いのかは、ぼく自身も分からない。
何もしないということも出来るが、この場合は本当に寝たきりになり、気力も何もかも無くなるわけで、要は双極性障害の鬱状態の前の状態でしかない。
極端すぎて困る。どうするべきか?

2021年11月16日

焦燥感

とても文章など書けるような状態ではないが、忘れないように書いておく。
ここ最近、焦燥感が酷く、それは他者との関係だったり過去の出来事だったり、或いは、もはや自分を救うような事を思いつけなかったりで、散々「良いことがある」「楽しい」と嘘でも良いから呟いてみたが、まったく効果がない。ぼくの脳は、そんなのでは騙されない。
ぼくは、たぶん誰からも相手にされない領域を見ようとしているが、それをすることで、ぼくが信頼している人々から、ぼくが離れていく事の恐怖もあるのかもしれない。
ただ、この世に、ぼくの生きるような領域が無い以上は、その相手にもされない領域へ進むことが必要なのだ。たとえ理解されないとしてもこの世の既存のものに、ぼくが入る余地がない。
相手にされない事そのものを受け入れなければ、ぼくは進むことが出来ない。

2021年11月04日

作品が上にあるのか、写真やら映像が上にあるのか

ぼくは、これまで、何のキャリアも無い状況から作品を作ってきた。これは人生における足掻きであり、学習力を著しく欠如した、ぼくの戦い方でもあった。
以前から、何故かぼくは、教えられた事を覚える能力が無いことを知っていた。それが何なのかは分からないが、それ以外は他の人と自分の違いというものを明確に見分けることができなかった。
ぼくは、最後までアカデミズムというものを理解出来なかったが、それは学習障害故の事だった。だから、未だにそれを覚える能力は無い。
ぼくに大きく欠けている事は、言語発達の遅れと、聴覚による学習の大きな遅れ、そして視覚による学習の遅れだった。
それは、障害であり、ぼくの特性であり、努力では覆せない足枷だった。

そんなぼくにも、光明が見えた瞬間がある。それは、思考力だった。他を塞がれたぼくは、そこだけが発達することになった。体験としてある他者よりも少ない記憶を駆使して、それを他方向から考え、組み換える事。ぼくは、いつしか、学習力を必要としない絵の描きかたを習得した。
それは、とりあえずは十分なものだったと思う。暗記という呪縛から解き放たれたのだ。
その時から、思考プロセスを他者とは変える事で作品を作る能力を得た。頭のなかで構成された記憶の断片は、徐々に成長し、独自の視点から作品を作る事になった。
ぼくは、作品を作る事にしたが、それは必ず1作目で結果を出すものだった。ぼくは、媒体や手法の上に作品を置くことで、あらゆる形態での作品制作を可能にする力を得たと思う。

これを言えば嫌な人もいるかもしれないが、ぼく以外の発達障害者のヒントになればと思い、言っておく。そもそも、ぼくは、他者とは比較にならないほど、アカデミズムの信奉者に差別されている。少しばかり言うことは許されるだろう。
定型発達者の多くは、暗記力があるために、それに頼っている。そのため、思考力に関しては、洗脳に等しく停止しており、その教育過程で得た知識、言わばそのジャンルにおける過去の偉人が作り出したスタンダードに取り囲まれた、ある種の籠に中におり、過去に囚われ、その中でしか動けない。つまり写真や映像におけるアカデミズムの中の囚人でありその外側を見る事に対して、非常に困難な状況を作り出している。つまるところ、新たな価値観というものを作り出す力には乏しい。
しかし、定型発達者は、マジョリティーでもある。多数決で、物事の良し悪しを決定する力を持っているのは彼らだ。しかし、その事で、物を作る事の根元を覆すこともできないとも思っている。
彼らが作り出す、アウトサイダーという言葉は隔離を意図としている。良いことをしているようでいて、実は差別をして引き離し、自らの籠を守ろうとしている。何故守る?そもそも多数派なんだから、お得意の最悪の民主主義を駆使して自らの圧倒的優位を決めてしまうことも可能だろう?そもそも、破壊は創造する上で必要な行事ではないのか?
もし、違うというならば、その件に関しては、話を聞こうと思う。

ぼくのこれまでの屈辱にまみれた人生を語るが、ぼくは、制度によって、作家としてのぼくを認められた事が無い。つまり面接であり、レポートである。
アカデミズムによって作られた制度においては、ぼくの学習障害というものは嘲笑の対象であった。好きな作品を思い浮かべても、その人の名前は、ぼくの頭からは出てこず、それは、彼らからすれば許しがたい事なのだ、ぼくは、レポートや面接のあるような制度においては一度も通った事が無いのだ。それだけではなく、蔑まれ出直してこいと言われたものだ。その程度の事も答えられないのか?と。しかし、出直したところ同じである。現在も遠巻きかどうかは分からないが、ぼくのその弱点をついてくるマジョリティーは多い。ぼくが気づいていないとは思わないほうが良いだろう。
しかし、表現においては、ぼくのほうが遥かに自由な存在であり、ぼくは籠の外から彼らを見ている。しかし、美味しいお菓子の城の中にいるようにも見える。全てを持っていると感じ、万能感を得ている人もいるかもしれない。
ぼくは言葉を選ぶが、理由がある。それは体験によるものだが、ぼくは写真かどうか、映像かどうかよりも「作品」という言葉を優先している。それは、ぼくの頭が作り出したイメージだからに他ならないが、別の言い方をすれば、手法は何でも良いのである。そのイメージを表せるのであれば、何でも良いのだ。
そういった意味で、ぼくはアカデミズムの傍観者でしかなく、それを外から見ている人間だということだ。
この世界を認識する自己がまず上にあり、その下に知覚経験が習得した、揺らぎやすい自我があり、その下に作品というものがあり、その下に写真や映像というものがあるのだ。

2021年11月03日

知覚の進化

知覚の進化の本質は、苦しみの認知とも言える。もし、進化の過程上、苦しみを認知出来なかったのであれば、ある程度以上の多細胞動物が、この地上に生き残る事は出来なかっただろう。死という苦しみを伴う現象から逃れるためには、苦しみの認知能力が不可欠だと言える。
この地上の動物の知覚の進化は苦しみの進化なのではないか?分かりやすく言えば、この世の地獄というものを認知出来るからこそ、そのパターンを持った生き物は、この地上に残っていると言える。もし、そういう認知が出来ないのであれば、それから逃れる行為を行う事はなく、この地上にはいないだろう。
熱さ、寒さ、痛み、苦しみが分からない生き物が、他の生き物や自然現象からの攻撃を回避することはあり得ないのだ。もし、楽だけを追及するようにできているとするならば、美味しい毒を平然として食べるだろう。

2021年11月02日

作品発表しないといけない病

作品なんて、べつに世の中からすれば、大した意味は無いし、それで何かが変わるわけでもないし、そんな大それた事を言う気も無い。
なんだけど、ぼくの体のほうは、どうやらその中毒になっている感がある。
今年もまたコロナ禍だし、それによって、色々と出来なかった。ぼくは、先に先にこういう事をやりますと公言しないものだから、外から見れば、何もしようとしていない感じに見えるかもしれない。
事実は、去年も、今年も、多くの予定が無くなってしまった。まぁ、ぼくが嘘をついた事にはならなかったわけで、それはそれで良いわけだが。。

最近は鬱気味で、正直入院したい気分に陥っている。とりあえず、この世の中の雑音から逃げ出したい。
何を甘い事を言っていると言われる方もいるかもしれないが、実際に双極性障害に陥ったならば、そんな事を言って余裕かましたりマウントとったりできない事は保証する。そもそも甘いとかなんとか言うのは、その言っている本人が抱えているバックにある社会の都合でしかないだろう。社会の都合上、うだうだ言わずに動けと鞭打っているだけなのだ。つまり、偉そうに社会の代弁者のつもりになってマウントとっているだけだと言える。
こうして、まだ文章を打ち込めるうちは、まだ華だと言える。
今年は、とにかく最悪だった。何故か、遊んだわけでもないのに、時間だけが経過してはいるが、何をやったのかも分からない。分かっていることは、入院したということ。あと僅かな記憶だが、長期の頭痛で、どうにも動けなかったこともあったかもしれない。

最近、写真作品を作る事に疑問を持ち始めている。なんというか、ぼくが求めてるものとは違う気がしてならないのだ。思うのは、何も人の生の意味への探求などは無いという事だ。安っぽい人間賛歌やら、写真のためのオタクイズムなどはただただ反吐が出る。人が生きる上での本題など無く、この世に生きる苦しみに対する言及とは程遠いもので悦に浸っているようにしか見えない。せっかく与えられた思考力も台無しであり、ただただ本題そらしをしているだけであって、完全に思考停止しており、芸術などとは程遠い。少しばかり考えれば分かるはずだ。例えば、その安っぽい人間賛歌の裏側に見える無数の数えきれない犠牲の事だ。うつ状態になれば、見えるのは、その裏側にある本質の部分だけだ。ある笑顔は、無数の犠牲の上で成り立っているという事実だ。他の手法の作品ならば良いのだろうか?いや、違うだろう。
結論として言える事は、作品など、作らなくても良い状態が一番良いのだ。そもそも意味が無いのだ。ぼくの存在など、世の中に示す必要などはなく、そもそもは、生まれてこない事が、一番の幸せだと言える。これは究極的で、思考のどこを探っても疑いの余地が無い。結論を言えば、この世の中こそが地獄なのだ。人間が地獄を考える上での必要な要素は、この世にすべてあるということだ。
生きる事の素晴らしさなどというまやかしは、今生きている事の言い訳でしかない。実際、生きる事の意味や素晴らしさなど、本当に見いだせた人が、果たしているのだろうか?

その意味というか、今生きている事の言い訳として作品というものがあっただけだ。その言い訳が出来なければどうなる?
言い訳というのは時間稼ぎなのだ。そして、言い訳というものは、いつかは覆されるのだ。そう、死をもって。

ともかく、ぼくは、今年、生きるための言い訳を今のところできていない。