2021年12月05日

自分の価値を見直す

ぼく自身の、自己評価の低さは、長年の経験や洗脳によるものだろうが、少しばかり評価を上げないと、やはり辛いものがある。
いつも、生きる価値が無いと言いながら生きるのは、そう思っているとしてもしんどいものだ。
ならば、自分の価値というものはどのように上げていけば良いのだろう?
「お前は、何の役にもたたない」と言われてきたが、本当にそうなのだろうか?何故、ぼくの価値をわざわざ下げる行為を他者はするのか?
おそらくは、そういう行為を行うことで、相対的に自分の価値を上げようとする人たちだろうということは、薄々気がついているはずだ。悪意があるのだ。
その悪意を真に受けるのは、ぼくの悪い癖なのかもしれない。
ただ、100の褒め言葉よりも、1の悪意を信じる傾向がある。何故なのだろう?その疑問点に関しては、未だに理解不能な点だ。
ともかく、ぼくには、何らかの価値があるはずだ。ぼくという人間が何をやったのか?は、何年かしなければ分からない事かもしれないが。

2021年12月03日

上手く頭をコントロールすれば、たぶんできる

随分と早く目が覚めてしまった。
とりあえず、早めに体のほうの調整をしたいので、寝まくったからなのだが、ふと思ったのが、何かで世界を取ることについてだ。この事に言及したことは無かったというか、身内の間での話でしかなかったのだが、上手く頭のほうをコントロール出来れば、それは可能なような気がする。

ぼくは、よく天才だの何だのと言われてきたわけだが、自分ではそれはよく分からないものだった。ただ、土壇場では、何か大きな力を出すらしく、写真に関しては、最初からグランプリを取るつもりだったし。あの時点で、それは可能なことだと思っていた。狙っていたのだ。

ぼくについて、ギフテッドではないか?という人もいるが、それもぼくとしては分からないものだった。ただ、ぼくが上げてきた功績は、独学によるものだし、特にある分野に特化した知識をもったものでもなかった。というか、そういうものを必要としないのだ。

長年の洗脳なのか、ぼくは人よりも劣っているという認識から自信が無く、それが自らの頭のコントロールを阻害してきたような気がする。何をやっても足りないと思う癖がある。出来ないことを無理やり何年もやらされてきた弊害だ。そのせいか、何かをやるにしてもやり過ぎるのだ。それは、色々な面で弊害を起こす。

幼少から、とにかく色々と出来なかったのだが、それはお膳立てされた、
道筋通りのものであって、自分で考えて何かをやる分には、劣っていたわけではない。ただ、そのお膳立てに関しては、いつも怒られたり殴られたりで、何かあれば「出来ないのは、お前が怠けているからだ!」あと、「しんどいのは、みんな同じだ!」という洗脳。

今、冷静に考えれば分かるのだが、ぼくは怠けているわけでもなければ、しんどいもの、実際にしんどいのである。現在分かっていることとして、世間一般の平均よりは、少なくとも大分しんどい。
先日、過去の洗脳について、再び気づくことが出来たのだが、食中毒でありながら、しんどいのは、ぼくの怠け心がそうさせていると思っていたことだ。事実は、感染症なわけだが、そのしんどさは、日常の延長にすぎないと思って動こうとしていた事だ。このような思考で続けていて、体を壊さないわけがない。

子供の頃に植え付けられた洗脳は酷く、しんどくても、それはそう思っているからしんどいのだと思い込んでいた。
まずそこを改めること。あと、ぼくの頭は暴走するので、加減が必要だ。加減しながら、作るもののバランスというものを考えれば良い。そうすることで、より多くの人の理解可能なものを作ることも可能だろう。全力でやれ!と言われてきたが、全力は出す必要がない。冷静であるほうが、よほどに良いと思う。そうすれば、おのずと結果は出るだろう。思考回路そのものは、かなり個性的なものであることは間違いない。
あとは、ゆっくりと洗脳を解いていくことだろう。

2021年12月01日

元気になって、また色々とやりたい

ここ近年は、ほぼ病気の状態だ。体力が、本当に無い。
何か、普通に動こうとすると、すぐに倒れるし、とてもじゃないが絵など描けない。最近は、写真を撮ることすら辛くなってきた。なんというか、カメラは運ぶだけのものになって、それを持ち上げる元気がない。

一応だが、2作品ほど作りたい動画イメージを持っている。正確には、もっとあるが、絶対に不可能だ。せめて1つは作りたいが、やはり道具を用意するだけで終わってしまう。
動いて座ると、過呼吸と動悸が酷い。それだけで、のけぞってしまうが、他人には理解されることもなく、ぼくがおかしな行動をとっているだけに見えるらしい。
今も座っているが、少々の動悸がある。

こうして書いているが、最近は本を読むのも辛く、すぐに横たわってしまうため読めない。それ以前に頭がもう情報を入れる事を拒否している。
何が原因か分からないが、とにかく虚弱で話にならない。
たぶん、無理をして動けば、また病院送りなのだろう。

最近、救急車に乗ることが増えた。少しばかり動けば、それがついてまわるのが面倒臭い。
ともかく、この起き上がることも困難な状況から、早く抜け出したい。

運動が良いと言うが、軽い運動を続けるだけでもダメージが蓄積される。
残念だが、そういう体だったようだ。
よく、怠けるからだと怒られたものだが、実際動けば倒れていた。学年でも5本んの指に入るほど走る体力が無かった。

なんか、全部嘘ばかりだな。
この世のなかは、本当に現実なんだろうかと疑う。
何かの冗談なのだ、とある時突然知らされる日が来ると良いな。

2021年11月28日

LGBTの映画見にいった。 I Am Here-私たちはともに生きている- という作品

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ここ最近、色々と死にたいと思うような状態だったので、とりあえず今の状況を持ちあげたいと思っていたわけだが、海外サイトを見ていたら、たまたま岡山県総社市でドキュメンタリー作品を作っているらしい人を見つけた。
作者は、浅沼智也氏 トランスの男性ということになるのだろうか?
内容的に、なんとなく、現状の死にたい病を打開するようなヒントがあるのではないか?と思ったことと、岡山でそのようなドキュメンタリー作品を作ってる人がいるのか?という興味深さもあった。
あと、ぼくのようなASDとか以外のマイノリティーはどのようにやっているのだろう?というのも興味深い。

何年か前、ぼくはASDでLDで二次障害で双極性障害もあるよ。とカミングアウトしてみたわけだが。結局のところ差別はされる。障害の事を言う事は問題だと言う人までいるが、言わなかったら、ぼくの学習障害とか、どう思われるのか知ってるのか?とも思ってた。とてつもなく馬鹿にされるだけでなく、誠意もない悪党と見られる事もある。
ともかく差別のある世界だ、社会というものから差別を無くすことが可能なのだろうか?ぼくは、悪党じゃないのなら、べつに何でもいいやんというところがあるが、世の中の人々はそうでもないらしい。何らかの価値観を守ることに必死なのだろうか?
ぼくは、身内からの扱いや、作品発表を通して、世の中の残念さが身に染みているので、けっこう擦れているかもしれない。正直、賞とか、給料の類だと思うぐらい冷めてしまった。「嬉しい」というのも社交辞令になってしまっている。

本当にともに生きているのだろうか?

ともあれ、生きる気力がありそうな人もいる。というわけで、bar AXという店に作品を見にいった。地図を調べると、ゲイバーと書いてある。そういうところに行くのも初めてなので、珍しくワクワクした。好奇心だけは、まだそれなりに残っているので、もうしばらくは制作は可能かもしれない。

店に入ると、全員知らない人ばかりだった。映画なのだから、岡山の映画関連のメンバーの一人ぐらいいるだろうと思っていたのだが、いなかった。そういう意味では残念でもある。
いや、マイノリティー的ポジションなど、この場合どうでもよく、本来ならばこの地元でそういう作品が作られたと興味を持ちそうなものだが、そうでもないのか?

とりあえず、上映である。
まず最初に思ったのは、けっこうぶっとい作品というイメージだ。押しが強い。他の人はそう思わないかもしれないが、ぼくのように「どうせぼくなんか」とか思って制作している身からすれば、かなりのぶっとさである。ストレートであり分かりやすい。あと、行動力が凄まじいのが、作品から伝わってくる。この作品を世に広めるという意思に満ちている。攻めの姿勢だ。逃げのぼくからすれば、捕食者のようでもある。いつも、「分かる人だけ分かればいいよ」と思っている身からすれば、けっこう驚くべき事だと思った。
登場する人たちは、生きる気力に満ち溢れている。もちろん悩みもあるし、生きづらさも伝わってくる。特に手術のうえにホルモンバランスの調整、その中で出てくる苦悩など、経験者でもないし想像できるものではない。しかし、とても前向きだ。
ぼくに分かる事ではないかもしれないが、マイノリティー的な生き方をしている人たちとしては、生きる気力もなんかもう崖っぷち感が漂うものだと思っていたが、そういう感じではない。むしろ活動家ぐらいの人たちによって構成された作品であり、作品そのものは良かったのだが、そのマイノリティーが作り出すコミュニティーにおける、ある種の絶望感を抱いている人たちにも焦点を当ててほしいと感じるところもあった。なぜなら、社会というものは、どの段階に至っても光の当たる部分と、そうではない部分が存在するからだ。
そういう意味では、現在絶望感を抱いているぼくにとっては、「ともに生きている」というには距離感を感じるところもあった。
もちろん、前向きな生き方を表現する事は、現在のトレンドではあるし、ネット社会以降は、あらゆる社会階層でそれが要求されているのも事実だ。個人的には、企業と広告イメージが、支配度を増したからではないか?と思っている。それでも、映画の後に、救われない人もいるという説明をするだけではなく、その人たちになんとか光を当ててほしいと感じるところがあった。光を当てても、そこには強い影が現れるかもしれないが、それが人間の持つ本質の一つでもある。そこが惜しい。
しかし、多くの人に見てほしい作品であることには変わりはない。

今日のぼくだが、先日まで体調が悪かった事と初めての場所での情報過多で、学習障害の症状が酷く出ていたかもしれない。というか、最近酷くなっているのがはっきり分かるのが嫌なところだ。

帰りに、福山の薔薇と迷宮に寄ったのだが、たまたま、発達障害のお客さんが来ていた。彼女はADHDで障害3級である。
そこで、今日見た映画の話を少しした。
ぼく:「なんか、LGBTQの人たちって凄い団結力だよね、驚いたよ。自分らには無理なんかなぁ・・そういう障害だから、ASDとか、ほんと団結とか無理だよね」「連中、政治とかも動かしたりしてるみたいよ?制度の話が結構出てきた」
「結局のところ、ぼくらにとっての制度は、隔離政策になってるような気がする」
客:「ADHDは衝動で、けっこう集会もするけど、持続しない」「ASDは聞かないですね〜」「LGBTは、最近なんか活発ですよね」
ぼく:「なんか、終わった後も、皆で記念撮影とかしてて羨ましかった。そういうの無いよね?」
客:「ないですね〜、とても羨ましいし、そんな中に入りたいけどできない」「どんな集団でもいいから、入りたいけど、入ったら違った・・という感じになる」
ぼく:「昔から、和気あいあいとした空間を見て疎外感を感じてた」「そういえば、在日コミュニティーに関わった仕事でもそれを感じた」「誰とも話が通じない、皆は通じ合えているのに」「社会性低いのに寂しいとか何なのよ」

ともかく、1対1の距離感が無く、集団との距離は遠い。トラブルは必ず起こる。
あえて、孤独というのも良いと、そういえば最近決めたばかりだった。
また、自分を使ったセルフ人体実験に戻ろう・・ぼく個人で、居場所を作るしかない。






2021年11月25日

孤独もまたよし

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というか、孤独な時じゃないと、色々とパフォーマンスが低いと思う。
それは、群れてる人たちが、結局のところ平均的になり、これと言って何らかの発展をもたらすような場面を見てこなかったからだ。
安心感と集団意識というものが成長の邪魔をしているように見える。
ぼくは、孤独に弱い部類だが、孤独を感じないときのパフォーマンスは低いと思う。独自の考えを練ることができない。

それは良いとしても、体がしんどすぎるのはいただけない。
病院に入院すれば、皆ワイワイと集まっている。だけど、精神病院においても、ぼくは特殊なのか、孤独だ。
ただ、誰にも邪魔されず、本を読めるのは良い。あと、孤独であれば、考えを巡らせる事も可能だし、一人でいれば、承認欲求の餌食になることもない。
自己承認欲求というのは魔物だ。安易な内容で物事を放出して、自我を満たしている分、成長できなくなる。

今後の課題だが、意識的に、他人との距離をとる事が必要だ。その事で、逆に、ぼくの周辺は豊かになるのかもしれない。