ぼくは、他の人ができる学習というものを大きく欠損しているが、同時にぼくが何気なくできることをほとんどの人ができない事にも気がついてきた。
多くの人は、わりと1から10まで学んで動いているということ。ぼくは、なんでそんな面倒臭い事をしているのだろう?と思っていたが、人に物事を教える上で、そうしないとできないのだという事を知ることになった。ぼくの場合は、教わると劣化するという現象が起こるので、それを極力避けるようになった。ぼくの学習は、極めて質が悪いのだ。
ぼくは、未経験の事でも、なぜかすぐに理解できたり、或いはいくら学ぼうと理解できなかったりで、わりとはっきりしている。できないことを訓練してもできるようにはならない。反復しても良好な結果は得られず、時間を浪費するだけだ。この文の改行を見ても分かるとおり、それをずっと理解できない。そこを分析してこなかったので、苦労は絶えなかった。他人を投影して、ぼくも彼、彼女らと同じに違いないと思っていたし他人も、ぼくができることは出来るのだろうと長く思っていたのだけど違う。
そこに軋轢が生じることになる。当然、ぼくを知って間もない人は、ぼくが、彼、彼女らと同じプロセスを経ていると思っている。しかし、ぼくは、あまり同じプロセスを経て何かをしているのではないということだ。それだけに、ぼくはアカデミズムとは相性が悪い。階層はあるとはいえ、多くの人はそのプロセスを経て物事を認識している。相手は、ぼくも同じ事をしているに違いないと思うが、そのほとんどをしていない事に対して苛立つ事もあるだろう。あることができるようになるまでの共通の話題も少なくなるだろう。しかし、それは、身体的特徴、脳構造の違いにより起こる現象だということだ。
他方でぼくは意外な努力をしているのかもしれない。他者とはそれた興味の対象に対しての個人的追及などだ。しかし、その事を理解してもらおうということも、最近は諦めている。考えれば分かるが、周りの多くが、同じプロセスを経ている場合は、ぼくのある種の思考が生み出す産物を見て「そんなはずは無い、お前は誰からそれを教わった!」と断じる事になることだ。皆顔を合わせるのだ。確かにぼくは、何らかの記憶を構成しているとは思うが、それが何なのか特定できるものではない。ある個人の持つ特徴を真似る必要が無い。ニューロンの構造上あみだくじのように寄り道をして何かを探しだし交差させて組み合わせているということだろうか?構成の産物が、人の作り出したものとも限らない。複合的だ。ぼくは、特にだが写真そのものの文化に興味があったわけではない。映像もしかりだ。どの作家が何をしたかなんてものは、学習できる人が得意とする記憶だと思う。しかし、多数派ができる事をできなければ、けしからんとなり軋轢を生むことになる。しかし、ぼくは、ぼくを守る必要があるので、余計な学習をして劣化したいとも思っていない。多くの人が、それで向上するとしても、それはぼくには当てはまらない。
ぼくは、学習という面では発達が遅れているかもしれないが、他の何かが代わりに発達しているということ。分かりやすく言えば、目が見えない場合、他の感覚器が研ぎ澄まされるのと近い状態なのではないか?と推測したりしている。