2022年07月07日

聞かれれば聞かれるほど、ぼくは他の人と大きく異なる

ぼくの思考回路は、他の人とは大きく違うのだと最近痛感している。
ぼくは、他の人ができる学習というものを大きく欠損しているが、同時にぼくが何気なくできることをほとんどの人ができない事にも気がついてきた。
多くの人は、わりと1から10まで学んで動いているということ。ぼくは、なんでそんな面倒臭い事をしているのだろう?と思っていたが、人に物事を教える上で、そうしないとできないのだという事を知ることになった。ぼくの場合は、教わると劣化するという現象が起こるので、それを極力避けるようになった。ぼくの学習は、極めて質が悪いのだ。
ぼくは、未経験の事でも、なぜかすぐに理解できたり、或いはいくら学ぼうと理解できなかったりで、わりとはっきりしている。できないことを訓練してもできるようにはならない。反復しても良好な結果は得られず、時間を浪費するだけだ。この文の改行を見ても分かるとおり、それをずっと理解できない。そこを分析してこなかったので、苦労は絶えなかった。他人を投影して、ぼくも彼、彼女らと同じに違いないと思っていたし他人も、ぼくができることは出来るのだろうと長く思っていたのだけど違う。
そこに軋轢が生じることになる。当然、ぼくを知って間もない人は、ぼくが、彼、彼女らと同じプロセスを経ていると思っている。しかし、ぼくは、あまり同じプロセスを経て何かをしているのではないということだ。それだけに、ぼくはアカデミズムとは相性が悪い。階層はあるとはいえ、多くの人はそのプロセスを経て物事を認識している。相手は、ぼくも同じ事をしているに違いないと思うが、そのほとんどをしていない事に対して苛立つ事もあるだろう。あることができるようになるまでの共通の話題も少なくなるだろう。しかし、それは、身体的特徴、脳構造の違いにより起こる現象だということだ。
他方でぼくは意外な努力をしているのかもしれない。他者とはそれた興味の対象に対しての個人的追及などだ。しかし、その事を理解してもらおうということも、最近は諦めている。考えれば分かるが、周りの多くが、同じプロセスを経ている場合は、ぼくのある種の思考が生み出す産物を見て「そんなはずは無い、お前は誰からそれを教わった!」と断じる事になることだ。皆顔を合わせるのだ。確かにぼくは、何らかの記憶を構成しているとは思うが、それが何なのか特定できるものではない。ある個人の持つ特徴を真似る必要が無い。ニューロンの構造上あみだくじのように寄り道をして何かを探しだし交差させて組み合わせているということだろうか?構成の産物が、人の作り出したものとも限らない。複合的だ。ぼくは、特にだが写真そのものの文化に興味があったわけではない。映像もしかりだ。どの作家が何をしたかなんてものは、学習できる人が得意とする記憶だと思う。しかし、多数派ができる事をできなければ、けしからんとなり軋轢を生むことになる。しかし、ぼくは、ぼくを守る必要があるので、余計な学習をして劣化したいとも思っていない。多くの人が、それで向上するとしても、それはぼくには当てはまらない。
ぼくは、学習という面では発達が遅れているかもしれないが、他の何かが代わりに発達しているということ。分かりやすく言えば、目が見えない場合、他の感覚器が研ぎ澄まされるのと近い状態なのではないか?と推測したりしている。

2022年05月08日

上手くいかないと作り話をして広める手合

現在、高熱が出てしまい、倒れている。少し動くとこれだ。
ぼく自身は、自分の作るものに対しては、それなりのプライドもあり、言われなくてもそれなりにやるのだが、勝手なスケジュールを作り、それ以上は無理と言えば、勝手にやらないと判断し、作り話をして広め、足を引っ張る手合が存在する。
そういう手合による負荷ははかりしれず、数ヶ月間追い込み作業のように16時間を超える作業を行い、結論としては今のような状況に至っている。死ななかっただけでもマシというものだろうか?

仕事ではなくても、おそらくはこの類いの人は存在するらしいことは、覚えもない噂を聞けば明らかだ。本当に馬鹿馬鹿しい話だが、そういう暇人は存在する。
パートナーには、むやみに人を信用するなと言われている。というのも、ぼくの行動は、基本的に他人を信用しての行動なのだが、それが良くないらしい。孤高を目指すべきとのことだ。
ぼくの脳構造に関しては、他人には理解不能らしく、そのために疑いを持つとのことだ。ぼくの制作活動そのものも不信の原因らしい。ぼくが、教育課程を経ず、いきなり物事を始めるというのも、いきなり結果を出すというのも、どうやら異様な事のようだ。それどころか、ぼくが下手に他人に物事を学べば劣化することから、今はそれを避けている。例えば、ぼくはデッサンを学んだことがあるが、それにより著しく劣化した。今は分かるが、学習障害があるからだ。不確かな情報が、ぼくの観察眼を阻害するのだ。世の中は、一般的な教育システムとして、詰め込み型にできている。ぼくが気づいた事だが、それを観察に置き換える事でデッサン力に関しては修正した。今も昔も、最も結果に繋がるのは、物や世の中の観察と独自研究だ。ぼくがインコと蟻を飼っているのも、人間に近い知能と人間に近い社会を持つ生き物からヒントを得るためだ。
ぼく個人としては、これまで歩んできた複雑な課程を脳内で変換して複雑に構築しているのにすぎないわけだが、これは普通ではあり得ない事らしいのだ。
写真新世紀を知らずに、通りそうという雰囲気だけで出したのも、どうやらぼくだけのようだ。
要は、ぼくの脳内の引き出しそのものが異常で、普通は資料というものはストレートに出るものらしい。それが出来ないからこそ、ぼくは文字をまともに書けないわけだが、代わりに行われる寄り道が、思わぬ構成を生み出すという感じだろうか?おそらく文字の引き出しも、探せないだけで、どこかにあることは分かっている。

2022年04月28日

まったく実力が足りない

正直、作家としての実力が足りないとしか言いようがない。
実力にも色々な要素があるかもしれないが、ぼくに一番足りないのは体力、そしてメンタル、あと運だろう。
これらをどうにかできるものではないらしいが、トータルで見るならば、他にも改善点はあるかもしれない。
実力が無い事で良いことなど何もない。そのおかげで苦労ばかりしている。もう少し自分の事が見えないといけないな。何か伸ばせるところがあるかもしれない。

ASD覚え書き

ASDというものに関して、多くの人は理解不能だと思う。何故そうなっているのか?など他人に理解してもらおうとしても、それは時間の無駄に終わるかもしれない。一つ言えば、下手に他人の価値観に合わせるよりは、我が道を進んだほうが良いというのがある。これは個人の判断次第だし、その人の特性にもよるかもしれないが、ぼくのケースで言えば、他人に価値観を合わせることは、大きくハンデを負うことになる。つまるところ、一般的価値観の元では、人並みの事はほとんどできないということになる。
できない事に関して、そこは努力するべきだという事を言われることがあるかもしれないが、これだけははっきりしておく。努力していても、間違いなく人並みにできることは無いということだ。人が1年でできる事だとしても、20年も30年もできることは無い。努力は重要かもしれないが、できないことは最低限でおさえておかないと、すべての面で遅れをとることになる。ASDというものの認識が低い時代の人間は、それで人生を棒にふることがあると思う。できる部分で努力したほうが、トータルとして能力を発揮できることになると思う。逆に、何故ぼくに特別にできることがあるのか?に関しても、他人には理解不能だし、そのような反応しか帰ってこないかもしれない。
もし、努力で何かが人並みに、それもわりと短期間でできたとするならば、それは障害とは言えない。そういう話をあてにしても、自分には当てはまらないと認識したほうが良いかもしれない。
努力という言葉は罠にもなり得るし、下手をすれば入院するはめになるぐらいのダメージを負うことがある。複合的な理由から、死ぬこともあるかもしれない。

ちなみに、ぼくがこの程度に文章を書けるようになるには40年以上かかった。それも、PCの補助無しでは不可能だし、文章として間違っているところがあったとしても、認識することは不可能だ。
もし、文章として何か間違っていたとしても、伝わればそれでOKぐらいに考えたほうが良い。自分が読んで理解できるか?というのは良い方法かもしれない。

2022年04月23日

悪夢 そしてうつ

今日は、疲労のせいか、昼食後寝てしまい、つい先程目覚めた。目覚めたのは悪夢のためだ。
悪夢の内容は、はっきりと覚えていないが、高校卒業の数日前、学校に行きたくない、という感じのものだった。ぼくが、そういう社会に入ることに、何の意味があるのだろう?と思うものだ。その前に見た夢は、予想外の人が、ぼくを手助けしてくれて、仕事が成立するというものだ。
そして、祖母を含め、既に死んでいる人たちの登場。
これのどこが悪夢かと言われるかもしれないが、ぼくがそこで複雑な思いにふける部分に悪夢の要素がある。
現在のぼくは、高校卒業後、何事も上手くいかないことを知っているのであり、その後の努力も、自分のASD発覚までは意味もなく空回りに終わる事も知っている。助けてくれた人も、事実は、ぼくやパートナーを陥れてきた人だった事から、何か申し訳ないという感覚に陥るものだった。そして、祖母の前で、ぼくはずっと無力で、守られるだけの存在で終わったのだ。
そして起きると、何とも言えない不安感に襲われた。ぼくは、何のために生きているのだろう?
いや、生きている事に意味などない事など、重々承知である。ただ、それだけに何らかの意味を感じとるような夢を見たりするのだろうし、そこに自らの価値を見出だそうとする。
最近は、例えば賞を取るというような、自己救済行動も、あまり意味は無くなってきている。ぼくは、仕方なく、その行動を取るが、それによって、自己価値が上がるということも少なくなってきた。結局のところ、不安定であり、自分の価値を見出だせずにいる。