2021年09月24日

無いのと同じ

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体調不良だが、まぁ、それを言えば、いないのと同じ扱いを受けるのが世の中の常だろう。というか、異物に関しては、そのように扱われるというのは、時とともに気がついてくるものだ。

最近、定形発達脳というものに対して疑いを持っている。そもそも、学習障害も自閉症も、言ってみれば、只の個性にすぎないわけだが、平均値を超えると、昔からよく表現されているような、投石の対象になる。
人に対して投石というのは、群れの特権なのだろうと、最近は思うようになった。
日常、どんなに良い顔をしていても良い事を言っていても、ある場所で群れは、人に石を投げつけているのだ。その後、何もなかったかのように、良き人に戻るわけだ。
昔からあった出来事として、群れは力のある者には従うが、それを失えば、力を失った者に対して石を投げつける。集団でそれを行うことで、身を守ろうとするのだろうか?

個人的には、ぼくは話し相手を求めているのにすぎない、話の通じる人を捜し求めている。そのために、ステージを変えようとする。今いるところに、話し相手はどうやらいないようだ。
実のところ、世の中、誰も何も追い求めているわけでもないし、過去の誰かを追っていたり、自己投影しているだけだったりで、べつに何も捜し求めていない。群れにいる以上、それと同じでいることが第一の保身だろう。
その中でも、輝かせてください、そういう集団で守られているのがアカデミズムだよ。その名(過去のお偉方の羅列)の元に、異端は排除できるからね。まぁ、中世なんて、異端を排除することで、社会を思考停止させて、それこそ、少数の人間に石を投げつける、只の信心深い良き人によって維持してきたような社会だからね。だからこそ宗教を利用したわけで。そういうのは罪じゃないらしいから。
現代も、本質は変わっていないが、そういう事は無い事にするのは、めっぽう上手くなったという感じだ。

最近、ファッション発達障害というのがいるらしい。まぁ、只のミーハーなんだろうが、そういう心理でいられるならば、世の中にお仲間はいくらでもいる事だろう。
発達障害=才能なんて思ってたら、大きな間違いだよ。いくらそれを叫んだところで、才能なんか出てこないし、その中の数少ない才能ある人たちまで潰してしまう事を考えた方が良い。
別に、発達障害ではなくても、世の中から外れてしまった人たちは多くいるだろう。
実は、そういう人たちが群れとの戦いの中で、生存のために獲得した異なる価値観こそが、才能の正体なんだよ。

2021年09月23日

劣っているはずの人間

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どうやら、ぼくが愛想をしても意味がないらしい事は、周りの態度を見れば分かる。
つまるところ、ぼくが分からないということと他人が分からないということでは、意味が違うと捉えられているようだ。普通なら、分からないなら教えてあげようとか、そんな感じだが、ぼくに対しては、劣った人間が生意気なという態度すら見せる。どうやらぼくを許せない人間がいるようだ。大切な賞が汚されたとでもいういうような。そんな事は、とっくに気がついてはいるが、分からないふりをしている。
とりあえずだが、障害のあるぼくは、ある種の目線を通せば、劣っているはずなのだ。そういう態度をとる人間に対しては、以前から少々苛立ちは感じていたものの、仕方のないことだろうと流してきたものだ。
まぁ、つまらない人生なのだが、たからこそ、仕方なく、そうではないのだと物を作る。なんなら、そういうつまらない人間に対しては、絶望せざるをえないぐらいの力の差を見せても良いと思えてくる。そういう連中が見えない領域を、一応は見えるわけで、実のところ運でもなんでもなく、そういうのを実力というわけだ。
あと、そうしないと、どうしても分からない人間というものはいるようだ。実にあほくさい。ぼくが、仕方がないから作っているというのは、冗談で言っているわけではない。やはり、作らないで良い状況というものが一番素晴らしいのだ。そうなることが一番の幸せだ。それに、そういうものは、生への執着でしかないのだから。
ぼくという障害者がいるとして、それが動くことで、ある種の境遇にある人が救われる事があるとしたら、まだぼくという存在にも意味があろうというものだ。
勿論、そういう意味が喪失した世界こそが素晴らしいわけではあるが、今の世が異種のものを隔離しようとするならば、未だに草は分けていくしかないのだ。

2021年08月07日

分からない、見えていないのだろうか?

どうも、ぼくが見てきて経験してきたことの集積のようなものは、ぼくだけのものらしい。そこまでは当然の事だ。それを人に説明するわけだが、それを理解できる人は、ほとんどいない。

ぼくは、人に分かるような答えは言わない。基本的には、考えてもらうためなのだから当然だ。それに、言葉で固定化出来るような人のような生き物のの振る舞いというものをほとんど知らない。流動性が無いものに生を感じないわけで、ぼく自身の体もそうだが、何もしないで生きているわけではない。必ず動いている。動きをやめなければ死ぬし、そうなると、体は腐敗という形で別の動きを得ようとするだろう。気体になり流れていくものもあれば、水となり流れていくもの、他の生き物に取り込まれるもの、色々とあるが、止まってはいない。死体が発見されれば、それは燃やされるだろう。気化するだろうが、植物に取り込まれたり、それが動物に取り込まれたり。

こんな感じなわけだし、ぼく自身も常に不安定要素を持つことによって思考している。安心感を得るために、絶対的価値観のようなものを持とうともしていない。そんなものは無いからに他ならない。その状態にあることで、ぼくは制作というものをしている。なので、他者の作り上げた作品という名の資料を持ち合わせてもいない。つまるところ、直接的なパクリも必要としていない。ぼくほど、作品に関する勉強をしていない人は珍しいかもしれない。特に写真作品の研究などはしたこともないのだ。写真というものは、視覚的なものなのだから、視覚的なものの配列で表現は可能だ。

ここ最近で、最も思考のために良かった空間は病院だ。あれは、なかなか良い。静かで、情報量は少なく、制限も多い。ただ、食事は与えられ、生きるのに必要なものは与えられるように出来ている。外で言うところの、やる事は無くなるわけで、そうなると、頭が色々と考えるわけだ。何かを流動させなければ、なかなかに辛い時間なのだろうが、考えるのは面白い時間だ。夢のようでもあり、これまでに脳内に蓄積されたものを整理するような時間でもある。ただ、ぼくが思うような思考するためには、それでも足りなかった。

経験的に、絶対的価値のようなものを格言として言えば、それで人が安心することは知っている。そうすることで、その部分については、もはや考える必要が無いからだ。
ただ、それにすべてを任せている人たちは、まずもって何も見えていないような発言をする。本人は見えているつもりなようだが、理解に乏しい。格言を言うが、その格言がどのような実践によって得られたのかを知らない。つまり知らないわけだ。

そういった人たちは、見えないものを想像出来ない事が多く、見えないければ何も無いと思うこともあるし、他の格言があれば、それを絶対視して、こちらに押し付けてきたりもする。
結局のところは、想像力の欠如なのだろうが、そういう人たちによって、世の中が暴走しているように感じなくもない。固定化された考えを持ってしても、世の中の流れが無くなる事はない。ただ、現在の状態の持続性を大きく失うことにはなるかもしれない。それに、変化は良い方向に動くわけではなさそうだ。

2021年07月24日

世の中とは異なり

一応、うちにはテレビも無いので、当然オリンピック等は見ていない。あと、駆り立てられるものがあり、自分が可能な限りは、撮影や、編集を続けている。人に与えられた時間は、とても短い。

自分の中で、自分を探している。この行為で自分というものが見つかる可能性は、0%だ。ただ、それを行う必要があると思っている。
結論として分かっている事を何故行うのか?それは意味が無いのでは?という言葉もあろうが、知識の上で、その0%を知っている事と、それでも探すという事では大きく意味が異なる。何故なら、そこには思考というものが、間に入ってくるからだ。
この思考無しでは、強度というものはあり得ない。

思考というものは、言語だけで行うものでもない。他の感覚も駆使する。それは、一瞬で何かを構築することもあれば、時間を要するものもある。ただ、経験上優れているのは、一瞬で出てくるものだ。これを時間を要するほうの思考で補完する。そうすることで、作品が成立するのかどうかを決める事になる。

ぼくが、現在何をやっているのか?を知っている人は、ほとんどいない。パートナーですら、一部しか知らない。
これまでの経験からの思考の純度を高めるためだ。それを、可能な範囲で行っている。
頭痛が続き、体力も無いが、休みながらの作業になる。

ぼくの価値観が、他者と大きく異なっているのは、もはや、ぼくが生きるための力になりつつある。この段階で、他者と触れる事は、ぼく自身が持つオリジナリティーを破壊することになる。他者の意見に、オリジナリティーなど無いわけで、それは、過去の何かと照らし合わせた何かにすぎない。「もっと、○○みたいにしたほうが良いいよ」という感じで。

2021年07月20日

苦しいなぁ・・おい

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ネズミを以前捕まえて、山に逃がした。残念な事だが、このネズミの子供は殺してしまった。助ける事が出来なかったのだ。子供の兄弟たちは、兄弟を助けるためなのか、次々に罠に入ってしまった。ネズミは、仲間の苦痛を共感する能力を持っていて、仲間を助けようとする。人間の考え出した罠は、この性質を利用しているのかもしれない。
この親ネズミだけは、普通の昔ながらの籠型の罠で捕まえる事ができたので、助ける事ができた。
クマネズミは、あまりに頭が良いので、捕まえるのにも致命傷を与えるような仕掛けが必要だったりする。他に方法が無かったのだろうか?

ぼくは、基本的に生き物を殺したくはない。残念ながら、生き物を食って生きてはいるが、それは望んだ事ではない。
ここまでして生きて何になるのだろう?
べつに、子孫を残したいわけでもないし、ぼく自身は滅びるべき遺伝子を持っていると思っている。仮に、ぼくが子孫を残した場合、半分は自閉症スペクトラム障害を持って生まれる事になる。遺伝するのだ。
ここまで、とても苦しい人生だったし、今は、歩くこともしんどい。体力は、そもそも無かったが、今は更に無くなってしまって、老人のようだ・・生きてて、あまり良いところも無かったような気がする。こんな人生は、ぼくで終わりで良いのではないか?
学習障害で、圧倒的な劣勢に立たされていたが、なんとか頑張ろうと思った。ピンポイントで、花火のようなものを上げる事は出来たが、それも続かない。それが限界で、何度も倒れた・・
こうして文章を書くにも、頭に激痛が走る。なんだろう?戦おうとすると、心臓がきしむように痛む。何かで、本気で戦おうとすると、心臓神経症を起こす。写真新世紀のグランプリ選考会の時も、それが起こった。何か神経の回路がおかしいとしか言いようがない。なんでこんな体なんだろう?これを続けて意味があるのだろうか?

自閉症スペクトラム障害を持つぼくには、共感性が乏しいらしい・・そうか・・他の人は、もっと共感力もあって、いわゆる人間らしいのだろう。たぶん、その共感力に、ぼくは生かされてきたのかもしれない。
そういえば、倒れても、ぼくは、誰かに手を差し伸べられて生きている。ぼくには、それを返す力が無いのに、そうやって生きながらえてきた。
ただ、それだけでは、ぼくはダメだろう・・
何か、世の中のためになることをしたい。それが何なのかは、ぼくには分からないのだが。