2016年06月17日

超人気で、夜なべで制作 新作登場! マウス画伯関連

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マウス画伯展で、グッズが人気で、ほぼ完売、更に注文が殺到したため、夜なべで製作中です。
こちら新作、「階級メッセンジャーバッグ」となります。
よろしくお願いいたします。
※画像はそれぞれクリックで拡大します。

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階級メッセンジャーバッグ
最新の家内制手工業によって生まれた、共に支えあう現代という美しい共生社会を実感できるバッグです。更には、上流様を支える重さが実感できる大容量!
頂点が人間よりも高度な霊体であるネズミ様なのが、せめてもの救いとなること間違いなしです。

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作家が、自らブラック化して夜なべで作られたハイクオリティ従来のものよりも高度な処理がなされています。※当家比
下手をすれば、自らが屍組に入りかねない重労働によって制作されたため、他製品よりも高級感があふれます。

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こちら、奴隷散歩用シューズも引き続きよろしくお願いいたします。


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奴隷散歩用シューズ


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↑クリックで拡大します

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2016年06月15日

大人気につき新作グッズ制作中 マウス画伯関連

↓クリックで拡大します
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マウス画伯展のグッズが予想外の人気で、ほとんど売れてしまったため、新作追加です。
家内制手工業のため、ほとんど動けない状態で、自ら※ブラック企業状態に陥っていますが、今後もがんばります。
人目が怖くて、「いいね!」も出来ない皆様も安心して購入出来る「サロン薔薇と迷宮」までお問合せください。隠密で来られるお客様も増殖中です。
よろしくお願いいたします。

※企業ではありません

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新作「奴隷散歩用シューズ」   ※6/15 20:15ごろ、早くも注文があったため、もう一組増産いたします。
※6/15 22:00ごろ、更に注文があったため、もう一組増産いたします。


つづき
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2016年06月10日

コーポラティズムなのか

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2016年6月現在の安倍政権に関して言えることですが、信者はともかくとして、まっとうな保守やリベラルにとっては異様な存在に見えるのではないかと思います。そもそもこの政権は一見するとパワー系の改憲論者であるように見えるのですが、実施された実生活に影響する主な政策は極端な新自由主義的政策で、これは戦後価値観である日本特有のイデオロギー対立を利用して、そちらにノイジーな有権者の目を移らせている間に行われた、もう一つの主軸になる政策でもあったと思います。
実のところ、この流れはIT政策を推進した森政権以前からの流れで、大まかには民主党政権も含めて同じ流れではあったと思いますが、これを※官製相場等を含めて一気に加速させるものでもあったと思います。(※アベノミクスの官制相場に関してはここでは書きませんので調べてみてください)
色々と言われることではありますが、ぼく個人は多くのノイジーな自民党信者や左派系政党信者が決定的に今の流れを作り出す原動力を作ったのではないかとも思えます。もちろん世界の流れを日本だけが避けることは叶わないとは思いますが、それでも外国勢力の介入を少なめにした政策は可能だったのではないかと思えるのです。
イデオロギー対立の愚に関しては、まっとうな人ならば気が付くとは思うのですが、現在の対立軸は、新自由主義的な政策に対する対立軸こそが必要で、少子化対策であり、格差対策、社会保障制度の拡充等の問題であって、中心に来るべき争点が9条改正論ではないのは分かるかと思います。
実のところ、これに関して言えば争点どころか、リベラル派が勝つのであれば実施はもとよりされないのでありますし、格差是正を求めるとして、なぜか護憲論までもがワンセットでくっついてくることが、一般的な有権者がこれを避ける理由にもなっているのではないかと思えます。理由としては簡単で、彼らが明確な安全保障についての理論を持ち合わせていないこともあるかと思います。現状では口だけの平和論には意味がないと思っている人は数多くいるでしょうし、アメリカ占領政策の口実にもなっている9条の扱いがどうなっているのかの疑問もあるかと思います。いったい、アメリカに出て行ってほしいのか、それとも、いてほしいのかがさっぱり分からないのです。さらには、日本の保守の多くは、なぜか盲目的に親米ですし、それによって現体制が維持されていることは、少し考えてみれば見えてきそうなものです。
これは、日本が敗戦国でもありますし、軍事占領ありきの状態だからこそ生まれた利権だったりで、構造そのものを動かすことができない癒着を生み出してるからではないかと思えます。現在の体制が崩れれば、現在のポジションを失う人々が出てくるということもあると思います。

現在の自由な競争の中でグローバル化することは、国内の保守派にとってもリベラル派にとっても本来は望ましいことではないはずです。なぜなら多くの国民が、その労力で稼いだお金が海外に無尽蔵に流れるのだから、国の政策というものが国の維持あってのことと考えれば、本来は国益イコール財界にのみ有利な今の状況は無いはずだと思えるのです。
思うのですが、新自由主義の繰り出す論には双方が共感するところがあって、いわゆる地球的な平和主義というユートピア世界を考えた場合、この国境なき世界は望まれる世界とも言えますし、政府による強制のない自由な経済活動というのは市場ユートピア的世界でもありますし、保守派にとっても望むところだったのでしょう。ここに対立軸の存在しにくい世界が誕生して、格差是正のあまりない超格差社会が誕生したのだと思えます。実際は、もっと複雑だと思いますが長くなるのでこの程度・・
ぼく個人は、そういうところに誘導し続けた果てはディストピアしかないという意見です。だからこそ、本来は対立軸が必要なのですが、カーネギーのような大富豪の提唱する「まずは議論を避ける」的風潮が強まって、それを述べる者が非常に少ないというのが現状だと思います。それも企業論とか現在のゆるい話し合い論に通じるものですし、なぜか責めることができないのは、TV、新聞などの既存メディアやネットの流す情報も関係あるのかもしれません。分かりやすいところでは、SNSでは毎日のように誰かが提唱した経済的成功の法則が流れています。トータルな社会で、これが成功しているかどうかに関しては、眉唾物でしかないとは思いますが。

この超格差社会の誕生とともに見えてきたのがコーポラティズム(大企業等巨大な力を持った団体と政治の癒着主義)のようなものかもしれませんし、最近あったパナマ文書流出問題やオリンピック裏金問題からより見やすくなった構造だと思います。
これは、企業が思うように政策を動かせる世界でもありますし、言葉を置き換えれば、繋がるという一見ポジティブな言葉に置き換えられた癒着で、そういう言葉に覆い隠された腐敗世界だと思うのです。

前回の「理想の世界」でもぼくが住む世界からみた、新自由主義の構造のようなものを書きましたが、今のところ、それに対抗するような対立軸はほとんど感じられず、繋がるという名の癒着構造によるヒエラルキーを維持することでのみ、約束された未来を夢を見るような状態で、さらにその対立軸を生み出すべき思考の世界をも腐敗させ、それを考えることすら悪と捉えるような状況が大広告社会である日本で起こっている現象のようにも見えるのです。
posted by 超画伯 at 16:04| Comment(0) | TrackBack(0) | マウス画伯関連

2016年06月07日

理想の世界

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自由という言葉は良い言葉です。当然ながら、ぼく自身も自由を求めています。
ここで、なぜぼくが映像作家になったのか書くことにします。それは、一種の敗北からの脱出でもありました。きっかけになったのは、今日的に地元岡山で行われはじめた、コミュニティーアートとも関係があるかもしれません。
ご存じの通りですが、こういったものに参加する文化人には、圧倒的に左派が多かったのです。彼らもまた、理想主義者であり、町おこしという善行と自己の生きる道として、そういう運動をはじめたのかもしれません。
作品は、それに免疫のない一般人にも公開されます。ここに、一種のポピュリズムと言いますか、囲われた空間とは異なる場所での開けた民主的な空間での自由な競争がはじまりました。
こういった空間に、内向的作品は好まれることはなく、問題視されることになります。当然ながら、この問題視と思考というものには密接な関係があって、それによって生まれる疑問には、明らかに価値があるのだと思いますが、残念なことに問題視されるものは競争に敗れることになり、消え去ることになることは目に見えていました。既に、自己責任論や勝ち負け組論は誕生しており、要するに、民主的な空間で理解を得られないものは努力が足りないのだと一刀両断される風潮の中、当然ながら一般とは異なる異質なイメージを作り出す人々は消えていきました。そして、発足した当事者たちも”淡々としたイメージ”を推奨していくことになりました。
更には、そういった発表の場の多くは無料で、街からは、いつの間にか発表のための治外法権的なギャラリーのような空間は競争に敗れて消えていくことになりました。
このとき気が付いたことですが、これは一種のシーンなのかもしれませんが、内向的世界を消し去るための運動でもあると直感的に思って、もう一つの閉鎖空間である、映画館や映画祭を目指して映像に転向したということがあります。これは、表現者としての自分を生かすための敗走でもありましたし、方針として精神年齢を非常に抑えた映像を広告業界から求められるような生い立ちを持った日本ではなくて、最初から海外を目指すというリスクの高いものでもありました。
結果としては、ぼくは何とか作家としては生き残ることが出来ましたが、元いた場所では、同期の人たちは消え去り、ポピュリズムに走る人だけが生き延びたという感じになりました。基本的な考えですが、そういう所から出てくるものはコミュニティーによる依頼に対するイメージであって、デザインのようなものでもありました。
ここに、知的格差のようなものが生まれることになったのではないかと思えます。
要望に合わせて分かりやすいイメージを作る→もっと分かりやすかったり、コミュニティーが良さそうに見える、コマーシャル的な作品を求められる→それに応じる→難しいものを考えたくない人の意見がまた出てくる→それに応じる・・・そういうことの繰り返しで、気が付けば、何も考えなくて済むようなものが作られ、そういったものはコマーシャル的でTVでもキャンペーンしやすく、苦情も発生しない・・子供も見れなくてはならないものは、対象年齢を下げる必要も出てくる→知的水準を子供に合わせたイメージを多くの人がアートと認識することになって、それが一般化する・・最終的には、それが社会の常識となって、治外法権的な芸術空間は崩壊して、広告的イメージだけが生き残る世界に・・こういった状況は、多くのジャンルで見られ、当然ながら思考を失った集団から、何か新しい発想を求めることは不可能で、囲い込まれた世界の競争力は衰退していくでしょう・・国など良い例です。
それが、ここ十数年で見てきた世界で、去る人からは「こんなはずではなかった」と何度も聞くことになりました。
これが、ここ岡山という地域で行われた実験の結果でもありますし、新自由主義的な自由競争の結果でもありました。
ぼくは、別の実力の世界を求めて海外を目指しました。実態のある表現者としての真の実力を身につけるべく・・そして心の自由を求めて。

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2016年05月30日

動物の思考

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人間は物事を考えるとき、言語で考える傾向があると思います。そこでふと考えることですが、動物は一部を除き、言語以外で物事を考えているということを考えます。間違いのない事だと思いますが、観察する限り少なくとも脊椎動物以上、あと一部の無脊椎動物にも思考があるということです。その感覚がいったい何なのかは、言語をもってしまった人間には想像しがたく、ある意味、言語をもってしまったために失われた感覚もあるのではないかと想像します。
言語に関してですが、このツールの特徴としては、物事を狭く限定して、分かりやすくする性質と、文字化することと紙などのメディアで残すことで、以後の人々にも遺伝のように知識を残していくことができる性質で、ある意味経験が無いことですら合理的に知ることができ、物事を先代に引き続き行うことが出来るようになりました。そして、過去の経験の積み重ねを更に多の経験や、自己の経験等と組み合わせたり上乗せすることで、爆発的に社会を発展させる能力を身につけたと思います。
もし、この積み重ねが無いとすれば、個体の行ってきた経験の手数というものが重要になってくるでしょう。動物にとっての思考の積み重ねは、遺伝に組み込まれた本能と実経験の手数によるものだと思います。更にそれは言語に例えることの出来ない思考によって行動を決めることになるということです。
それが「嫌だな〜」とか「美味しそうだな〜」という感覚だけのものなのか、映像化による思考なのか、それとも五感、動物によってはもっと多くの感覚をもっているかもしれませんが、それによる複合的なものなのかは、言語があるがために、色々と感覚を失ってしまっているぼく自身には分からないところです。分かることは、彼らが間違いなく思考をもっているということだけです。
時々考えることですが、ぼくはそれでも、言語以外の思考をたまに使っているということです。根拠となるのは視覚芸術としての作品で、ぼくの場合は、最初から決まった形で現れてきて、最初から世界観は完成されたもので、コンテも参考スケッチも持たないことが多いということです。


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これを特殊だと考える人もいるようですが、人が動物として進化してきた以上もっているはずの感覚で、ぼくの脳構造と何か関係があるのかもしれません。
こういう感じで、感覚的に危険だ!と感じたものを作品として表すこともあります。最初は、なぜ危険なのか分かりませんが、とにかくこのままだと、将来的に自分の身にも何か起こるかもしれないという感覚に襲われるということがあるということです。そして、その解決策としての作品が出来たあとに考えるのですが、その時に行うのが言語化でしょうか・・当初は言語があるわけではなくて、当然ながら、コンセプトのように、物事の行く先を限定する”言語”を持ち合わせることなく制作を行います。言葉は大きな空間を捉えることが難しいため、これを使う場合は、意味を凄く狭めて限定してしまいます。ある指標としては良いかもしれませんが、将来を決める場合、言語の意味に限りがある以上、ありがちな決定を行ってしまうために、独自の世界観を出力する以上は、本能的に避けるようになりました。ぼくにとっては、脳内に無数にある引き出しのサーフィンのほうが重要で、この時にニューロンを情報が通過する上で、複合的に組み合わされる構成こそが作品だったりします。そしてそれは、言語ではないかもしれませんが、原始的な感覚や行動・・「攻撃する」「逃げる」のような漠然とした決定によって統一感を持つのかもしれません。

posted by 超画伯 at 17:54| Comment(0) | TrackBack(0) | マウス画伯関連