とりあえず、マウス画伯展に関連した考察の最終回にしようと思うのですが、展覧会期間中に考えたことは、プロセスの社会という、結論のはっきりしない社会というものでした。
そもそも、この展覧会は、パナマ文書流出事件を発端に行ったもので、まず第一の目的は、ほぼ無関心を装うマスコミ関係に、この記事を載せることにありました。おそらくは、週刊誌によっては、この件を軽めに乗せるということはあったかもしれませんが、ぼくが最も危機を感じた現在の社会の状況まで書くような新聞というものはこの時点では、ほとんど無かったのです。
租税回避問題については、以前から知られていたことで、2014年には、日本の大企業等がケイマン諸島等、タックスヘイブンを利用して行っていることは知られた事実ではありました。ただ、今回よりもずっと世界の危機意識は低かったように思います。
事実としては知っていながら、今回の件を特に異様に感じたのは、社会の隠蔽性といますか、なぜか巨大な圧力団体同士が互いを隠しあっている様子でした。これ自体は、現在の社会では巧みにポピュリズムを利用して、聞こえの良い言葉を使って事実を言い換えながら、様々な形で繋がっていこうとする社会の傾向を考えれば分かるものでしたが、より巨大な力を持った団体が繋がりあって、同じ方向で道義に反する行為を行って、それゆえに誰も何も言えない状況が起こっていることでした。そして、それらと繋がる団体もそれを裁くことが出来ない状況・・互いが抜け駆けは出来ないように結びついていることがはっきりした事です。
コーポラティズム(協調主義、圧力団体等の癒着主義)・・色々と繋がることは、ある時は重要で、ある時は無いほうが良いことがあると思います。残念なことに、三権分立等と言われるように対立関係があったほうが良い世界というものは存在しますし、多くの場合、この対立軸こそが、ある一方の暴走を食い止めるものでもあるということです。それが最終的に全体でまとまってしまえば、ファシズム(近い意味として全体主義)という段階が待っているということもあります。これはユートピア的な発想の行き着く一つの点ではあると思うのですが、この場合も次の対立軸がより強固な形で現れてきます。それは、それ以外の国ということになると思います。
事実としては知っていながら、今回の件を特に異様に感じたのは、社会の隠蔽性といますか、なぜか巨大な圧力団体同士が互いを隠しあっている様子でした。これ自体は、現在の社会では巧みにポピュリズムを利用して、聞こえの良い言葉を使って事実を言い換えながら、様々な形で繋がっていこうとする社会の傾向を考えれば分かるものでしたが、より巨大な力を持った団体が繋がりあって、同じ方向で道義に反する行為を行って、それゆえに誰も何も言えない状況が起こっていることでした。そして、それらと繋がる団体もそれを裁くことが出来ない状況・・互いが抜け駆けは出来ないように結びついていることがはっきりした事です。
コーポラティズム(協調主義、圧力団体等の癒着主義)・・色々と繋がることは、ある時は重要で、ある時は無いほうが良いことがあると思います。残念なことに、三権分立等と言われるように対立関係があったほうが良い世界というものは存在しますし、多くの場合、この対立軸こそが、ある一方の暴走を食い止めるものでもあるということです。それが最終的に全体でまとまってしまえば、ファシズム(近い意味として全体主義)という段階が待っているということもあります。これはユートピア的な発想の行き着く一つの点ではあると思うのですが、この場合も次の対立軸がより強固な形で現れてきます。それは、それ以外の国ということになると思います。
しかしながら、この事を身近な人に伝えてみても、伝わることは無く、TV等は、もっぱら芸能人等の不祥事を流し続けている状況でした。
もちろん現在の社会では、そういう分かりやすい不祥事でなければ、理解できない人が増えたというのもあるのかもしれません。
現在のユートピア的思想と言えば、市場経済の自由ということになっています。これは、個人主義や共産主義などと考えは異なるものの究極的には国境の無い世界を目指すものでもあります。経済的自由というのは政治による介入が無いほど自由が拡大するのだから、無政府状態こそが究極の形態で、目指すべき世界ということになると思います。当然ながら政府が無いのならば国境もない一つの世界ということになると思います。世の中には、国が悪行を行うのだから、そういったものが無いのが良いとする考えや、個人を重視するのならば、そういった社会の力が個人に及ぶべきではないとするような理想主義というものが存在すると思いますが、これらの結論はどれも非常に似通っていることに注意していただければと思います。そして、政府はその役目を縮小するべく、自ら力を放棄してる最中ですが、一見強さばかりが目立つ政府というのは実は非常に弱いのだと思えます。
最終的には、弱い政府には社会的な制度によっての再分配が期待できないのだから、力だけが支配する世界というものが待っているということです。
最近、コンビニの本棚等で田中角栄の名前をよく見ます。彼もまた、汚職で問題になった人物だったと記憶していますが、同時に現在の路線とは異なる政治を行っていた人物でもあったように思います。書籍については読んでいませんが、現在の世の中の方向性が新自由主義で、行き詰まっているからこそ、また田中角栄なのだろうか?と思ったりします。
彼が行ったのは税収を地方に再分配することで、富の再分配を行う事でした。そしてそういったことはインフラ整備等では地方のゼネコン等と癒着しやすく、どうしても腐敗しやすい構造がありました。これは社会民主主義的な発想から起こる政治だとは思いますが、結果としては、この腐敗が嫌われたことと、冷戦の終結から、決定的に市場中心の自由主義の方向に加速したのだと記憶しております。冷戦構造時には、何時でも社会主義革命が起こる可能性を秘めていたため、基本は資本主義の社会も、進んで社会主義の手法を取り入れていたのでしょう。社会主義単一の国家に対するセールスポイントとして、労働階級にも配慮する必要があったのです。
これが、社会主義陣営の崩壊で、社会のそういう制度そのものが信用を失って、最近で言えば、鈴木宗男議員の事件を最後に大きく流れが変わったという感じでした。彼もまた、田中角栄と同様なのでしょうが、当時では古い社会民主主義タイプの議員ということになり、その古さには、マスコミも含めての総攻撃で、完全に現在のような流れに移行したという感じです。もちろん、現在の流れとしては、イギリスのサッチャリズムなど、新自由主義という流れは中曽根内閣あたりからあったものではあると記憶しております。
新自由主義の時代になると、これまでの汚職が減ったのは確かでしょうが、それ以上に問題があふれて出てくるようになりました。
田中角栄の地方への富の再分配で書いたように、政府の介入が減る以上、それが無くなる方向に向かう新自由主義では、地方から疲弊していくことになります。
その時に登場したものですが、現在のぼくの視点は、あくまでもアートという自分の居場所であり、排除された領域でもある社会を見る目線から発展したものです。今回はコミュニティーアートについて深くは書きませんが、疲弊する世の中を覆い隠すように様々なものが現れてきました。特に言葉は現状を覆い隠すようなものが蔓延しました。
ぼくにとって幸せだった時代はいつだったのでしょう?分かりませんが現在と、これからがすべてで、それなりに幸せなのかもしれませんが、不安はより大きくなりつつあります。その中で苦しいながらも助けられたり、色々な集団等と対峙しながら進んできていることは、一つの生を感じる瞬間です。たぶん、人間というか、この自然界は生まれた時からそういう要素が必要なように出来ています。
ぼくが、ある理想を掲げても、それは非常に儚いもののように感じますし、壊れてしまうのは時間の問題なのでしょう。自然界の掟です・・永遠の約束された状態は来ないのです。ならば、これまでにやってきたこと、そしてこれから行う事をせめぎあいながらもプロセスとして進んでいく・・成功・・結果だけを追ってショートカットのように成功しているように見える他者をコピーしているようなものとは異なって、少なくともプロセスを知っている以上、より創造的になって、ぼくに内在するものは生きる力として、より強固なものになっていく・・結果として、より良い人生だった・・というのが、ぼくの持続可能な人生なのかもしれません。