先月、湯原神社御大祭の写真を撮影したわけですが、これは、ぼくが自主的に勝手にやったことで、一種のここに住まわせてもらっているお礼としていったものでした。現在、ぼくがこの地での物的エネルギー量をそれほど保有しているわけでもなし、何らかの形でお礼ということで、労力という形でお返ししたものでした。
そして、それは湯原温泉AIRのプレイベントで、写真展という形になりました。
写真は湯本コミュニティーに提供したもので、それをどう扱っても良いというものでしたが、こういう運びになったわけです。そして、これは、この地にとってとても重要な事だとも思うのです。
当初、レジデンスに入るにつき、ぼくは、かなりきつめの発言をしました。「ぼくが、この町の象徴であるハンザキのモニュメントを作っても意味が無い」「ある集団から受けた依頼を形にしても、それはアートというよりはデザインだ」「集団から得られる最大公約数的なアイデアは、個性が無く、どこも似通っており価値が無い」「ぼく一人を町に入れたところで、大勢に影響はない」「この事業に仮にごくわずかな影響があったとしても、それは数ある事業の中の一つでしかなく、引き続き継続して多くの事業に取り組まなければ何の意味もない」「もし仮にアートでにぎわっているように見える地域があるとしても、それは背後に大資本が動いていることをお忘れなく。原理としては工業団地が潤っている状況に等しく、そして、それは現在ここには無いのだ」等々・・
ならば何が必要なのかと言えば、他の地域にはない価値を創造する力を養うことなんだろうと思います。それに必要なものは、まずは自主性であり、それを持続する意欲だと思います。
以前から、現行型のコミュニティーアートに関しては批判を行ってきたわけですが、特に多いのは行政が行う場合お金の流動が無く、税金だけを消費し、無料でイベントを開催し、ただただ税金を消費するだけの形・・ここだけを見ても分かるかと思いますが、なぜか税金が消えゆく末端がここにもあるわけです。一つの事業だけを見れば大したことは無いかもしれませんが、塵も積もれば莫大な金額となることは想像できます。そういうものは、実は皆さんからじわじわと搾取されていることもお忘れなく。そして無料で開催されたイベントの報告として重要なのは客の動員かと思いますが、これのほとんどは通行人のカウントであったり、ただの水増しということをぼくは知っています。
このコミュニティーには、それを良しとしない人もいて、「今まで湯原がそのように無料の奉仕をしたために現在の状況がある」と言われている方もいます。
結果としては、価値には対価をということだと思うのですが”謝礼”をいただくことになりました。もちろん、これは、ぼくが頼んだことではなく、自主性からということになります。この謝礼をエネルギーのようなものと捉えれば、いくらかの行動のためのエネルギーになったことになります。ぼくは、この謝礼を宣伝のための移動費(ガソリン代)に変換して、現在も活動を継続中で、これが何倍にもなって帰ってくることを望みます。そして、こういうエネルギーの循環こそが、この町の再生のカギとなるものだと思えます。勘違いの無いよう言いますが、これは、あくまでものすごく多くの事業を持続的に行えばということになると思います。小さな力が沢山必要だということです。
奉仕という美談だけでは、その活動が続くこともなければ、流れの無い水と同じく淀んで劣化することは目に見えると思うのです。
つづき