ぼくが思うことの一つは、何もマジョリティーの元で、しおらしくマジョリティーのフリをしなくて良いんですよ?という事になる。彼らの作り出した蓋の中の住人である必要はないということだ。
ここ近年の物事のあり方は、実はそういうものの排除であることが多い。それは、人間の性質を利用した巧妙なものだが、前面に美しい言葉を並べて粛々と排除を行う。綺麗事というのは、同調圧力をかけるという意味では、大きな力になる。街の中を見るだけでも、実はそういうものが溢れている。
実のところ、多くの人が、それを望んでいない事も分かっている。社会の構造として、そのように動かざるをえないという状態に陥っている事も。
ぼくが何かを言ったところで、どうなるものではないが、ヒントとしては、その排除用に作られたシステムそのものを利用するという方法も考えている。
目の前に出されて「これはおかしいなぁ。。」というものを見たら、考える必要がある。おかしいと感じたことそのものに新たな発想のヒントがあるのだと思っている。
ぼくというものが、上手く器として機能すれば何かに気づく人も現れるかもしれない。人生を賭ける価値がある。