これまで、ずっと「新しい」とか「実験する」とか聞いてきたわけだけど、正直表現というのは60年代とか70年代とかの焼き直しのようなものばかり。
実験映像とかいう言葉も、そういうジャンルがあるだけで、何か昔にあったムーブメントに対するノスタルジーのようなものしか感じなかったりする。つまり、昔そういうものがあって、それと同じような姿をしたものを実験映像と呼んでいたりする。実際に実験があるのか無いのか?に関して言えば、それは既に行われた実験を模倣するだけのものだったりする。実験が重要なのではなく、実験映像のような姿をしている事が重要なのだ。
写真の発表をして、そこの守り人というか村人も見てみたが、形態としては、やはり同じようなものだ。
ぼくは、ぼくが生きる事ができる世界を探してきたが、「村」というのは生きにくい場所だ。基本保守的であり、表現の幅を広げないという戒律があるかのように動く。必ず聞くのは「べき」という言葉だろうか?「こうあるべき」という言葉だ。その言葉が出てきた時点で、彼らにとって何が重要なのかを察しなければならない。その言葉は、言わば「壁」なのだ。他の社会との壁とでも言おうか?リベラル的な発言があるようだとしても、事実はそうではない。人間という生き物が作り出す社会というのは、基本どこでも似ているのだ。ASDで、思考回路の異なるぼくが、今ある社会に馴染めないように、ぼくは村に馴染むことはできない。
恩のようなものは感じるが、ぼくはぼくなのだから、そこをふりかえるべきではないのかもしれない。
この事に関しては、書くべきなのか?と思っていたが、ぼくが孤独を受け入れるという意味では、書く必要を感じた。あと、表現世界における、一つの事実としても書いておく必要を感じた。
「ありがとう」と言いながら、ぼくは先に進む必要がある。先に進むのがしんどくなったら、「横に進む」でも「斜めに進む」でも良い。べつに、そこの評価というものが必要というわけでも、もはやないのだ。
友人でありながらも、彼、彼女らの評価というものを求めるべきではない。