2021年11月28日

LGBTの映画見にいった。 I Am Here-私たちはともに生きている- という作品

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ここ最近、色々と死にたいと思うような状態だったので、とりあえず今の状況を持ちあげたいと思っていたわけだが、海外サイトを見ていたら、たまたま岡山県総社市でドキュメンタリー作品を作っているらしい人を見つけた。
作者は、浅沼智也氏 トランスの男性ということになるのだろうか?
内容的に、なんとなく、現状の死にたい病を打開するようなヒントがあるのではないか?と思ったことと、岡山でそのようなドキュメンタリー作品を作ってる人がいるのか?という興味深さもあった。
あと、ぼくのようなASDとか以外のマイノリティーはどのようにやっているのだろう?というのも興味深い。

何年か前、ぼくはASDでLDで二次障害で双極性障害もあるよ。とカミングアウトしてみたわけだが。結局のところ差別はされる。障害の事を言う事は問題だと言う人までいるが、言わなかったら、ぼくの学習障害とか、どう思われるのか知ってるのか?とも思ってた。とてつもなく馬鹿にされるだけでなく、誠意もない悪党と見られる事もある。
ともかく差別のある世界だ、社会というものから差別を無くすことが可能なのだろうか?ぼくは、悪党じゃないのなら、べつに何でもいいやんというところがあるが、世の中の人々はそうでもないらしい。何らかの価値観を守ることに必死なのだろうか?
ぼくは、身内からの扱いや、作品発表を通して、世の中の残念さが身に染みているので、けっこう擦れているかもしれない。正直、賞とか、給料の類だと思うぐらい冷めてしまった。「嬉しい」というのも社交辞令になってしまっている。

本当にともに生きているのだろうか?

ともあれ、生きる気力がありそうな人もいる。というわけで、bar AXという店に作品を見にいった。地図を調べると、ゲイバーと書いてある。そういうところに行くのも初めてなので、珍しくワクワクした。好奇心だけは、まだそれなりに残っているので、もうしばらくは制作は可能かもしれない。

店に入ると、全員知らない人ばかりだった。映画なのだから、岡山の映画関連のメンバーの一人ぐらいいるだろうと思っていたのだが、いなかった。そういう意味では残念でもある。
いや、マイノリティー的ポジションなど、この場合どうでもよく、本来ならばこの地元でそういう作品が作られたと興味を持ちそうなものだが、そうでもないのか?

とりあえず、上映である。
まず最初に思ったのは、けっこうぶっとい作品というイメージだ。押しが強い。他の人はそう思わないかもしれないが、ぼくのように「どうせぼくなんか」とか思って制作している身からすれば、かなりのぶっとさである。ストレートであり分かりやすい。あと、行動力が凄まじいのが、作品から伝わってくる。この作品を世に広めるという意思に満ちている。攻めの姿勢だ。逃げのぼくからすれば、捕食者のようでもある。いつも、「分かる人だけ分かればいいよ」と思っている身からすれば、けっこう驚くべき事だと思った。
登場する人たちは、生きる気力に満ち溢れている。もちろん悩みもあるし、生きづらさも伝わってくる。特に手術のうえにホルモンバランスの調整、その中で出てくる苦悩など、経験者でもないし想像できるものではない。しかし、とても前向きだ。
ぼくに分かる事ではないかもしれないが、マイノリティー的な生き方をしている人たちとしては、生きる気力もなんかもう崖っぷち感が漂うものだと思っていたが、そういう感じではない。むしろ活動家ぐらいの人たちによって構成された作品であり、作品そのものは良かったのだが、そのマイノリティーが作り出すコミュニティーにおける、ある種の絶望感を抱いている人たちにも焦点を当ててほしいと感じるところもあった。なぜなら、社会というものは、どの段階に至っても光の当たる部分と、そうではない部分が存在するからだ。
そういう意味では、現在絶望感を抱いているぼくにとっては、「ともに生きている」というには距離感を感じるところもあった。
もちろん、前向きな生き方を表現する事は、現在のトレンドではあるし、ネット社会以降は、あらゆる社会階層でそれが要求されているのも事実だ。個人的には、企業と広告イメージが、支配度を増したからではないか?と思っている。それでも、映画の後に、救われない人もいるという説明をするだけではなく、その人たちになんとか光を当ててほしいと感じるところがあった。光を当てても、そこには強い影が現れるかもしれないが、それが人間の持つ本質の一つでもある。そこが惜しい。
しかし、多くの人に見てほしい作品であることには変わりはない。

今日のぼくだが、先日まで体調が悪かった事と初めての場所での情報過多で、学習障害の症状が酷く出ていたかもしれない。というか、最近酷くなっているのがはっきり分かるのが嫌なところだ。

帰りに、福山の薔薇と迷宮に寄ったのだが、たまたま、発達障害のお客さんが来ていた。彼女はADHDで障害3級である。
そこで、今日見た映画の話を少しした。
ぼく:「なんか、LGBTQの人たちって凄い団結力だよね、驚いたよ。自分らには無理なんかなぁ・・そういう障害だから、ASDとか、ほんと団結とか無理だよね」「連中、政治とかも動かしたりしてるみたいよ?制度の話が結構出てきた」
「結局のところ、ぼくらにとっての制度は、隔離政策になってるような気がする」
客:「ADHDは衝動で、けっこう集会もするけど、持続しない」「ASDは聞かないですね〜」「LGBTは、最近なんか活発ですよね」
ぼく:「なんか、終わった後も、皆で記念撮影とかしてて羨ましかった。そういうの無いよね?」
客:「ないですね〜、とても羨ましいし、そんな中に入りたいけどできない」「どんな集団でもいいから、入りたいけど、入ったら違った・・という感じになる」
ぼく:「昔から、和気あいあいとした空間を見て疎外感を感じてた」「そういえば、在日コミュニティーに関わった仕事でもそれを感じた」「誰とも話が通じない、皆は通じ合えているのに」「社会性低いのに寂しいとか何なのよ」

ともかく、1対1の距離感が無く、集団との距離は遠い。トラブルは必ず起こる。
あえて、孤独というのも良いと、そういえば最近決めたばかりだった。
また、自分を使ったセルフ人体実験に戻ろう・・ぼく個人で、居場所を作るしかない。






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