自分のために草を分けるというのは、社会のため地域のためとか言う人にとっては利己的な考えかと思われがちで、特に公共的な媒体にとっては、その意味を伝えにくいという現実があると思うが、簡単に説明してみる。
結局のところ、生きにくい人生を生きるマイノリティーにとっては、黙っている事はただただマイナスであり、社会によって、その存在そのものに蓋をされるのである。
だから、生きるためには黙るわけにもいかず、自らの生きる場所を探して草を分けるしかないわけだ。その草分けというのは、仕方なくやっているものだ。
そこを利己的と思うのは自由ではあるが、短絡でもある。
誰かが草を分けたのであれば、そこには道が出来、行き場のない人たちの通り道になるということだ。これは、草を分けた人そのものの意図ではないにせよ、結果としては、ある特定の人たちに生きる道を示したことになるのではないか?
誰かが草を分けたのであれば、そこには道が出来、行き場のない人たちの通り道になるということだ。これは、草を分けた人そのものの意図ではないにせよ、結果としては、ある特定の人たちに生きる道を示したことになるのではないか?
ということ。