2021年06月21日

代替するもの

何か添え物でも無いと寂しい事になるが、どうやら、はっきりと何かを認定しずらい写真だとしても、ここで写真を撮ることはまずいらしい。というのも、それをすると、重要さの境界が分からない人は、何でも撮ってしまう可能性があるし、何故それが駄目なのかは理解できる。
ぼくの写真は、ある種特別な意味をもった企業秘密的なものを撮影はしていないが、これの行為を理解できない人(入院者)は多いだろう。
というわけで、過去記事の写真は削除した。

しかし、ドキュメンタリーとしては危ういにせよ、ぼくが言いたい事を他の写真で代替することは出来る。
要は、導きたい結論は同じわけで、その作品そのものに至るまでの道しるべとしての写真を退院後に撮るという手法を考えた。
それに、ある種のリアリティーを持たせるには、強度が必要である。
が、それは可能だし、言葉だけの伝聞よりはリアリティーを持たせる事は可能だ。
何かの制限や、ある種の状況から回避することで、考え出すに至った手法でも、時には、その時点よりも豊かな表現を得る事はあり得る。

何故なら、ぼくは、その制限のある状態を知っているが、外に出れば、その制限は大きく無くなる。
リアリティーを持たせるめ、ある種の戒律みたいなものも必要になる。その一つはスマホだろう。その時点で使い得た唯一のカメラがそれだからだ。どちらにせよ、制限された自分の心境というのは、重要な要素だ。
それ以外の代替するものを考えるのも面白い時間だ。ここでは説明しないが、アフォーダンス的な事象によって引き起こされるぼくの振るまいとも言える。
もう一つ、ここまで苦労して、再現したにも関わらず、最後に破戒の要素を混ぜるのも面白い。

今の自分の写真を撮れないのは、少々残念ではある。似たような写真は、ホテルでもどこでも撮れるわけではあるが。
ただ、この状況を知っているのは、ぼくでしかないわけだから、代替写真でも、他者からすれば、真偽は分からず、同じ意味として成立する。そうなれば、真偽については、さほど重要な問題ではなくなる。そもそも、ぼくが、何を感じ、どういう感覚をもったのか?に作品としての最も重要な要素があるからだ。仮に、ぼくがどういう表現を行ったとしても、感覚を直結出来ない以上、他者にとっては、それは例えのようなものにしかなり得ない。

写真が無いことで、意味が希薄になった日記もあるかもしれないが、それは、この病院から外に出れば、いくらでも別の写真を撮ることで再現できる。
実は、非常に安易に、それは再現出来るほどに、この部屋の情報量は少ない。というか、撮った写真の情報量は少ない。別の言い方をすれば、どこにでもあるし、苦労もせず撮れるものばかりだ。その少なさこそが重要で、だからこそ考えるに至ったことは多い。
写真の、本物とフェイクの違いについて、だれがそれほどまで理解できるだろうか?
というような、新たな思索を楽しむきっかけにもなった。

これから本当の事を述べる。
IMG_20210528_151621.jpg
「これが、病院での写真だ!」
と言っても、何のリアリティーも無いだろう。「えっ!?ペット可の病院なの?」とか、洒落た想像が出来る人は、ちょっと素敵だ。しかし、ぼくは嘘はついていない。これは、動物病院に、ペットのインコを連れていったときの写真だ。病院だが、ぼくを表すとしても、今とは別の状態を表したものだ。ここまで言ったのだから言うが、写真の作者(撮影者)はぼくだ。

そもそも、文字表現は、何かを表す場合、代替する性質を持っているものだが、感覚としては、ダイレクトではない。故に、情報量的に、視覚的なものは、この日記に書いているような、こういうケースでは問題になる。分かるだろうか?
代替するとしても、視覚的な表現は、言葉の情報量を上回るということにはならないだろうか?
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