2021年05月30日

雑音との距離感

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(konicaU/Kodak Gold 200)

そろそろ、精神的に集中していきたいので、世の中の音、特に雑音を閉じようと思う。主にSNS、あまり有用な情報は、やはり得られない空間なのだから、閉じても問題は無いところだ。所詮は掲示板。

それよりは、リアルな交流というものが必要だろうと思う。
人間のあらゆる行動には意味は無いと思う。そこに意味をつけることと生きるということは、密接に関係がある。意味が無ければ、生きる事が虚しいからだ。
だが、生きる上で必要のない雑音は、本当は無くても良い。同じ意味がない事だとしても自分の意味の生成という意味では、有用性は低い。
有用性の無いものは、麻薬のようで、ある種の快楽はあるかもしれない。ただ、それで逃すことも多くなる。一時的な安心感は、深い意味での安心感にはならない。そこは、ぼくが住む世界では無いのかもしれない。ぼくが、作品というものを望むのであれば、より深い精神性のようなものが必要なのだろう。

より、精神的に深いであろう事を求めている。
ある種のオリジナリティーの高い経験というのは、その人生の希少性によって生じるのかもしれない。ぼくとは違う人生を経験している人は、ぼくとは違う仕事が出来る。
この事は非常に重要だ。似た経験をした人から、特異性を持った情報を得ることは難しい。多くは、聞いたことがある、或いは極めて類似性の高い情報しか得られないのであれば、そこから何か価値ある情報を得られるだろうか?そこに、共感を得られるのであれば、それはそれで意味はあるのかもしれないが・・

ぼくの人生は、ある意味特異かもしれない。
単純に、障害者であり、知覚そのものに、ある種の特殊性を持っている。ぼくは、その事を望まなかったが、自分でそれを決めることは出来ないのだから、ある意味仕方のないことだ。
マイノリティーだ。

おそらくは、彼らの苦悩というものを昇華させることには意味がある。意味は無いだろうが、意味がある。
ぼくが、何らかの苦悩を記し、それを捉える事が出来る人がいたとするならば、それだけでも意味があるのではないだろうか?少なくとも、その信号を感じる事が出来る人であれば、ある種の虚しさの埋め合わせぐらいにはなれるのではないか?
同様に、ぼく自身も、その虚しさの埋め合わせを求めているのだ。

たぶん

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