2020年4月16日、日本全国に対して、緊急事態宣言が発令されました。たぶん、ぼくの人生の中で起こった中で、最大の社会的危機の状態です。この緊急時ですが、この国の動きは、あまりにもゆっくりです。少なくとも2か月少々前まで、危機を危機としてして受け止めていなかった事は間違いなく、ぼくは、色々な人に対しても危機を訴えてみましたが、それは受け入れられませんでした。
皆、この社会は強固で、必ず守られるという幻想を抱いていたようにも感じます。残念な事に、この幻想は打ち砕かれたのではないかと思っています。

新自由主義によってグローバル化された、この世界では、不安や恐怖といった感情は否定されてきました。楽観的で、良いことを言っていれば、必ず良くなるというような意見が蔓延し、もし不都合な事があっても、それを見ない社会になっていたと思います。つまり、多くの人にとっては、”それは無い”ということになっていたように感じます。そこからくる、危機感の弱さというものは、ウイルスの蔓延という意味では、それを後押しするような状況に陥っていたのではないか?と感じたりしています。
新自由主義によってもたらされたであろう、”意識高い系”という層にとって、ネガティブな発言を行うことは、基本的にはあってはならないものではなかったでしょうか?
ただ、生物としての人間から、恐怖や不安という感情を取り除くということは、間違いではなかったか?今をみて思うことは、人間から、あまりにも危機回避能力が奪われたということ。少なくとも、進化の過程で、生存のために必要な要素として不安や恐怖という感情を身につけたのだから、生物として、それは必要なものではなかったか?
それを取り除いてしまうような社会は、本来は危険なものだったのではないでしょうか?つまり、警鐘というものが否定される社会ということです。

新自由主義によってグローバル化された、この世界では、不安や恐怖といった感情は否定されてきました。楽観的で、良いことを言っていれば、必ず良くなるというような意見が蔓延し、もし不都合な事があっても、それを見ない社会になっていたと思います。つまり、多くの人にとっては、”それは無い”ということになっていたように感じます。そこからくる、危機感の弱さというものは、ウイルスの蔓延という意味では、それを後押しするような状況に陥っていたのではないか?と感じたりしています。
新自由主義によってもたらされたであろう、”意識高い系”という層にとって、ネガティブな発言を行うことは、基本的にはあってはならないものではなかったでしょうか?
ただ、生物としての人間から、恐怖や不安という感情を取り除くということは、間違いではなかったか?今をみて思うことは、人間から、あまりにも危機回避能力が奪われたということ。少なくとも、進化の過程で、生存のために必要な要素として不安や恐怖という感情を身につけたのだから、生物として、それは必要なものではなかったか?
それを取り除いてしまうような社会は、本来は危険なものだったのではないでしょうか?つまり、警鐘というものが否定される社会ということです。
ぼくは、この新型コロナウイルス、SARS CoV2に関して言えば、文明破壊型のウイルスのように思えます。
高すぎない致死率、長い潜伏期間、大気中でなかなか死なないウイルス。以前から言われていたことですが、文明を破壊するという意味では、出来すぎたウイルスです。ただ、それは確率論としては必ず生じるものだとも思っています。
たまたま、何らかのウイルスが、この条件をそろえたとき、必ず蔓延するということ。ウイルスが変異するという特徴を持っている以上、適者生存の法則を考えても、蔓延することは間違いなかったのではないかと思っています。このSARS CoV2が発生しなくとも、他のウイルスの変異でも起こりうる事だったのではないかと思います。
高すぎない致死率、長い潜伏期間、大気中でなかなか死なないウイルス。以前から言われていたことですが、文明を破壊するという意味では、出来すぎたウイルスです。ただ、それは確率論としては必ず生じるものだとも思っています。
たまたま、何らかのウイルスが、この条件をそろえたとき、必ず蔓延するということ。ウイルスが変異するという特徴を持っている以上、適者生存の法則を考えても、蔓延することは間違いなかったのではないかと思っています。このSARS CoV2が発生しなくとも、他のウイルスの変異でも起こりうる事だったのではないかと思います。
つまり、この社会に適合したウイルスは、必ず発生してヒットするであろうということです。世界が繋がり、それは蔓延したということです。
この新自由主義の思想のもとで構築された現代の社会は、ネガティブなものは廃される方向に進んできました。この道に間違いがあってはならないということで進んできたわけですが、それによって起こった現象は、危機に対して、あまりにも脆弱な社会を構築してしまったということなのではないかと思ったりするわけです。ネガティブな要素を見ることは、例えば、芸術においても少なくなっていることは間違いないのではないでしょうか?危機を訴える事すら許されない社会になってしまったのだから。
この新自由主義の思想のもとで構築された現代の社会は、ネガティブなものは廃される方向に進んできました。この道に間違いがあってはならないということで進んできたわけですが、それによって起こった現象は、危機に対して、あまりにも脆弱な社会を構築してしまったということなのではないかと思ったりするわけです。ネガティブな要素を見ることは、例えば、芸術においても少なくなっていることは間違いないのではないでしょうか?危機を訴える事すら許されない社会になってしまったのだから。