2019年09月30日

足枷を外して楽になる 得意な事しかしない

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ぼくは、生まれた時代柄なのか、どうもスポコンな所があります。自分を鍛えるという意味で、作品の中に、常に自分の理解が及ばない要素や苦手な要素を盛り込んできました。そうやって自分の能力を鍛えようとしていたわけです。なので、あらゆる装備は変態的で、すべて王道とは異なる方法で物事をやってきました。しかも、わざと苦労する方法で・・そうすれば、筋トレのように自分を鍛えることが出来ると思ってきたわけです。

病気以降、ぼくの能力は、著しく下がりました。思考力も下がり、得意の知能系の問題も全然ダメになりました。心臓が肥大し、歩くのも一苦労、自律神経も乱れ、体温も血圧もコントロール出来ない状態。
2年前には普通に使えていた道具も、色々感覚から忘れてしまって、使うことができません。過去のファイルとか見ても、自分はこんな事が出来ていたのか・・今の自分にはとても出来ないものばかり・・メモも、まったく理解できません。
作りかけのデータは、明らかに自分に負荷をかけることを目的としていて、次のその次で最大の力が出せるようなやり方で作っていたりします。

作品アイデアも何十種類、たぶん他人とも被らない・・映像、絵画、立体、写真、ここでは言いませんが、それ以外もあります。その中でも、自分に負荷がかかり、難度の高そうなものから作ろうとしていました。完成度云々よりも、自分を鍛えることを目標にしているようなものばかり。毎度知恵熱で頭痛になりますし、それらは、間違いなく、体力的にも完成度を下げるものです。あと、それらを一度の人生で実現することは不可能です。そもそも不可能な事を急いでいたわけで、それを無理に作る必要も、本当はなかったのだと思います。

「蟻のような」は映像作品のためのアイデアであり、その映像がどういう姿なのか?に関して、自分の脳内にははっきりとあります。もちろん、体力があるならば、制作は可能です。アイデアに関しては、病気以降のものなので、その内容は、自分に課した足枷を外したものです。そして、これまで培った能力のみを使うのだから、それは確実に成熟した作品になります。完成すれば、これまでの作品とは比較にならない強度を持つことになると思います。得意な事しかしないわけですから。
あと、自分にとってのオーソドックスは、世の中のオーソドックスにはなり得ないのではないかと思います。常に他者とは、興味の対象が異なっていたわけで。

足枷に関しては他にもあります。基本的にアニメーションのような映像作品に関して言えば、どこかで他者の要素を入れる必要が生じます。ですが、それは一種の足枷にもなり得ます。完全に自分と一致するイメージとか、他者から得ることはあり得ないわけです。作るならば、完全に一人で制作することが望ましい。スタッフは、ぼく一人、それならば、完全にコントロール出来ます。それは、自分だけの作品になるわけで。

さて、疲れるので、SNSは何日か休もう。

posted by 超画伯 at 01:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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