2019年08月25日

スーパーマイノリティ

naizou.JPG
ぼくの目の前には、昔からある種の壁があります。
今は、自閉症スぺクトラム障害についてカミングアウトしていますが、これをしなければ、ぼくは常に不審者でしかなかったのです。
色々と、そういうのは関係ないと言われてきましたが、それは無いです。関係あります。周りがじわじわと壁を作っていきます。
ぼく個人の表現観と言いますか、そういう観方をするならば、そういった発言は嘘で、とても安っぽく、軽薄なものに感じます。社会の通例に従って喋っているだけで、何も理解できないのだなとしか思えません。
結論としては、カミングアウトによって、ぼくは不審者と思われないだけ、楽にはなったわけです。

知っている中での、ぼくの味方は、たぶん数人しかいません。数えるほどで、ぼくがやっていることを理解してくれる人は、更に少なくなります。とりあえず、社会との隔たりは大きいわけです。
自閉症スペクトラム障害ですが、これは個人差が非常に大きいのではないかと思われます。ぼくは学習障害を持ち、それなりに重度ですが、知的障害は無いタイプです。ぼくと会った人の印象は、天才、もしくは馬鹿、或いは気がふれた人間という感じでしょうか?しょうもない奴と思っている人も多いでしょう。

ぼくは、社会の軽薄な嘘を嫌います。ですが、本質的な事を言えば、それは”しょうもない奴”になってしまったりします。ある種の、社会的常識になぞらえて喋らなければ、それは、しょうもない事なわけです。嘘でも良いから綺麗ごとを言わないといけないのが社会なのかもしれません。例えば、日本式アートフェスの在り方で、逆に文化や民主性が衰退するといったような意見。常識的には、アートがそうであってはならないので、多くはその事を言わないというか、それにすら気が付いていないといった感じ。しかし、村社会である、この日本の社会を見る限り、そうなのは間違いの無いことで、違うのならば、違うという証拠を見せてほしいと思ったりします。その部分が、完全に思考停止されているために、ぼくには余計に危険なものに見えるわけです。
心配しても、仕方が無いのかもしれません。ぼくは、文化をそれほど愛してはいませんし、何かを作るのは、コミュニケーション手段で、その領域が狭められている現実を嘆いているだけなわけです。事実として、表現の領域は、狭められていると感じます。感じない人は、そもそも、どんな体制下でも問題にならないような表現をしている人たちなのかもしれないとも思ったりします。

同じ障害を持つ人たちと仲良くできるのか?に関して言えば、それだけでは仲良くは出来ないと思います。LGBTや少数民族のように、少数ながら団体になって行動できるとか、そういうのも無いと思います。
脳の障害で、それぞれが、あまりにも違うのです。
集団化出来ない以上、常に自分対社会の関係で、物事を対社会で見ていました。そういった意味では、社会を深く見つめてきたかもしれません。その中には、仲間などいませんでした。そういった意味で、スーパーマイノリティーなのだと言えるのではないかと思ったりします。

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/186470648

この記事へのトラックバック