2018年09月20日

何をもって自閉症なんでしょう?

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ぼくは、自閉症という診断を病院での何度かのテストの結果受けているのですが、いったい何をもって自閉症となるのでしょう?
物事の関心が、世間一般と大きく離れていることも、学習力が著しく低いことも理解はしていますが、自分から見た世界というのは自分という存在があって、ごくありふれた風景が周囲にあるという印象で、特別に違うものが見えているわけではないという感じで見ています。
ただ、人と接するのにエネルギーが随分と必要だということは、体調を崩してからは感じていることで、結局のところ内向的で自分の中に籠っているという意味ではそうなのか?とも感じます。

他人を見て少し不思議に思うことですが、他者は、自分の考えというものを理解しているのでしょうか?という疑問がわくことがあります。
自分の考えとは何なのでしょう?
ぼくには分からないことです。
けっこう多くの人が「これはこうだ」とか「これはこうあるべき」とか言っていることに違和感を感じるのですが、けっこう決まりきった世の中を見ていることは分かります。
強く断定されると。「そうなのか?」とも思うわけですが、しばらく時間が経過すると、「いや、違うかもしれない」とか疑問がわいてきます。
もしかしたら、この世の中が変だと思ってはいけないのかもしれません。歪みの部分は、ぼく自身の問題でしかないのかもしれません。
なぜなら、多くの人は、ある種の断定形の言葉を理解しています。それを集団で受け入れて共有することで、コミュニティーを維持しているのだという感じをうけます。

ぼくは、基本的に物を作るとき、その意味を言葉では理解していません。「???」を具現化しているだけのことです。基本、資料すら見ていないので、「○○に関心がある?」とか「○○を見た?」と言われても、ほぼ該当しません。
多くの人は、部分的な要素を既存のものと照らし合わせて、それを一致させることで、心の平穏を保っているように思われます。シンプルにグループ分けすることが、心の平穏を保つコツのようです。
しかしながら、ぼくのパートナーとなる人は理解することですが、ぼくは、ほとんど人の創作を見ないということ・・
多くの人は、単純に、ぼくや他者が見ている現実の世界の類似性の部分を見て、ある人の創作との類似性を見出そうとしている感じを受けます。

ぼくは、創作の社会の中ですら内向的で、誰かに憧れることもまずありません。そういったタイプの指標を持つことの重要性について聞かされることはありますが、そうはなりません。どうやら不可能なようです。
作品の目的も非常に曖昧で、自分ですら理解できていません。
指標も無いものを、黙々と作っているだけのことです。仮に指標があるときは、社会に対しての敵意というものがあるときぐらいです。
だからこそ、自分の作品の説明については、特に困るわけですが、これが言えないことが、創作の世界の中では問題視されるわけです。
ぼくは、そもそも言語に関する学習障害が強めにありますので、もし何かを理解しているとすれば、それは言葉ではないもので理解しているのでしょうと思ったりするわけです。
おそらく、物事の理解の仕方が他者とは大きくずれてしまっているのでしょう。
posted by 超画伯 at 01:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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