永瀬清子を描くにあたり、自分の考えを進める中でぶつかる考えがあったわけですが、その考えがぶつかる中での、映像的回答というものが生まれてきました。
これは思想信条のぶつかり合いでもありましたが、「死」という表現によって解決することに気が付きました。
「明け方に来る人よ」という詩は、老いた永瀬清子が、死を実感する中で、回想する詩だと言えるかもしれません。現実の世界では叶わなかったことに対して老いた永瀬清子が想いを寄せているのです。
永瀬清子の思想を描く中での「死」については、当初からの想定で、それは最初から組み込む予定だったのですが、これをどう表現するのかは、地球の表現です。
大きく言えば、宇宙から見た地球であり、この日本の中の岡山という土地から見た土着の地球ということになると思います。
「私は地球」という詩から分かることですが、永瀬清子自身が、この世界をその両側から見ていることが分かります。
老いてからの詩についてですが、宮沢賢治という人物を憧れていた永瀬清子ですが、それを考えるとき必然的に生じる、理想である世界が一つになった世界と、土地に生きる民族としての自分という現実の中で、思考がぶつかり葛藤している状態が、永瀬清子の詩としての美しさを生み出していると思います。
現代を見るとき、ぼくは直感的に永瀬清子は現代とは真逆の人であり、だからこそこれを引き受けて作ろうと思いました。
何が真逆なのか・・こういう意味で永瀬清子は硬派なのであり、自分の中で考えながら新しい回答を出そうとしているところにあります。それは相反する考え方をぶつけ合うことで新しい考えを生み出すことに他ならならないのです。
今の世の中は、右も左も「ゆるふわ」だと思います。これを、今よりまともな時代に生きてきた人は、思慮があるならば良しと思わないのだと思います。
現代を見るとき、ぼくは直感的に永瀬清子は現代とは真逆の人であり、だからこそこれを引き受けて作ろうと思いました。
何が真逆なのか・・こういう意味で永瀬清子は硬派なのであり、自分の中で考えながら新しい回答を出そうとしているところにあります。それは相反する考え方をぶつけ合うことで新しい考えを生み出すことに他ならならないのです。
今の世の中は、右も左も「ゆるふわ」だと思います。これを、今よりまともな時代に生きてきた人は、思慮があるならば良しと思わないのだと思います。
例えるならば、自民党参議院のドンとまで言われ、日本会議の生みの親とまで言われる、村上正邦が、政治的には対立する山本太郎を褒めたたえ、安倍総理を非難したというエピソードが分かりやすいかもしれません。堕落した味方よりも、良き敵を選択したということになると思います。
ぼくが重要だと思う点は、まさにこの点で、要は金や人気を得るために、自らゆるくなって、何でも取り込もうとする姿勢を批判したのであり、軸になる敵とぶつかることで、そのプロセスから新たな回答を得てきた人からすれば、あり得ないのが今の世の中であり、それを批判したのだと思います。
こうした堕落した世界は、SNS等を見ても分かるように、人気を得るためだけに思想をゆるめたことで起こったことでもありますし、いわゆる集金をするならば、より多くの人から集めたいという考えからもそうなるのだと思います。
そこで生まれたのが「ゆるふわ」という考えなのでしょう。
節操を失った考えから生まれるものは腐敗だと思います。皆が仲良くなった?否、皆で堕落することは、仲良くなることに繋がらないと思います。堕落した世界はそれを維持しません。
この世の中は、常に考える人たちの意見のぶつかり合いが無ければ、新しい考えは生まれて来ないのだと思います。
結論としては、村上正邦の時代は、彼自身は本物の右翼だったと思いますが、創り出された社会は社会民主主義と言えるような格差の少ない社会だったように思います。
今蔓延しているのは、金や人気を得るために、対立を避けるためには「皆で考えるのをやめよう」とか「みんな一緒〜」とかそういう世界でしかないように思います。

ぼくが重要だと思う点は、まさにこの点で、要は金や人気を得るために、自らゆるくなって、何でも取り込もうとする姿勢を批判したのであり、軸になる敵とぶつかることで、そのプロセスから新たな回答を得てきた人からすれば、あり得ないのが今の世の中であり、それを批判したのだと思います。
こうした堕落した世界は、SNS等を見ても分かるように、人気を得るためだけに思想をゆるめたことで起こったことでもありますし、いわゆる集金をするならば、より多くの人から集めたいという考えからもそうなるのだと思います。
そこで生まれたのが「ゆるふわ」という考えなのでしょう。
節操を失った考えから生まれるものは腐敗だと思います。皆が仲良くなった?否、皆で堕落することは、仲良くなることに繋がらないと思います。堕落した世界はそれを維持しません。
この世の中は、常に考える人たちの意見のぶつかり合いが無ければ、新しい考えは生まれて来ないのだと思います。
結論としては、村上正邦の時代は、彼自身は本物の右翼だったと思いますが、創り出された社会は社会民主主義と言えるような格差の少ない社会だったように思います。
今蔓延しているのは、金や人気を得るために、対立を避けるためには「皆で考えるのをやめよう」とか「みんな一緒〜」とかそういう世界でしかないように思います。
永瀬清子に関する表現ですが、死後どうなるのかということです。
天に昇るのか、地に帰るのかという表現の違いは、天から地球を見るということと、地から土着のものとして世を見るという二つの考えに繋がります。このうち、どちらを選択するのかということは、「死」をもって解決すします。
体は地に帰り、魂は天に帰るということです。
体は地に帰り、魂は天に帰るということです。