2017年02月17日

銀河鉄道999に見るリアリズム

汽車0045.jpg
銀河鉄道というわけではありませんが、「きよこのくら」のための汽車を制作しています。もちろんデータですが。

こういうものを作っていると思い出すのは、銀河鉄道999です。

永瀬清子は、世界連邦を夢見て高齢で県庁に努めていますが、時代的なこともあって、ぼくはこれの実現には懐疑的というか、そのミニチュア版とも言うべきEUが終わりかけていることを見ても無理だという考えで、これはそうなる何年も前から言っていたことです。
テンプレのような平和主義者が言う「欧州を見習え!」という言葉ですが、そういう意味では、いったい何を見習えば良いのか、頭の中でどう組み立てても無理なことから、「これは無理な試みです」と言ってきましたし、「新手の戦争準備にしか見えない」と言ってきました。
なぜなら、これこそが、お金と人だけが移動出来て、税制は独立という非常に中世に至る道のり的というか中央集権的というか、お金と仕事があるところ以外は、マンパワーも吸い取られていくグローバル社会の典型として見ていたからです。
この中の富める国だけが、一時的にユートピアを実現したように錯覚する人もいるかもしれませんが、それこそ木を見て森を見ずという感じの話で、周辺国を地方と例えるならば、お金も人も中央に移動したのであり、疲弊した社会が出来上がることになると思います。これに気が付かないように、多くの民衆には成功例や、なんとなく上手くいっている様子だけをマスコミは見せるようになるでしょう。なぜなら、マスコミはスポンサーである富める者を責めることは、本質的には出来ないからです。
世界は、富める者に利するグローバリズムと、ある種の嘘に気がついた人が救いを求めるナショナリズムの争いになると思います。

映画版ですが、999の世界を見ると、宇宙全体が機械帝国によってグローバル化していて、富裕層である機械化人は特権階級であり、永遠の命というユートピアとしては究極のテーマを実現したメガロポリス住民と、その周辺にあるスラムに住む低賃金労働者であり食料でもある生身の人間が存在する超階級社会が描かれています。機械化人は、貴族らしく、英雄の機械伯爵というキャラクターも登場します。
星野鉄郎という主人公は、グローバル化した宇宙の中で、機械の体を手に入れるため、宇宙一豊かなユートピアである機械化母星を目指して、旅をすることになります。重要な要素ですが、一般的な生身の人間は星に縛られて生きていて、非常にその枠組みから逃れることは難しいというのも現代と似ている点です。
つまるところ、運の良い難民のような存在でもあると思いますし。まさしく宇宙市民になるべく地球という狭い星を脱出するという内容です。
最終的に、鉄郎は生身の人間の不幸の元凶に気が付いたことと、無料で機械の体を貰えるとしても、それは機械化母星の部品であり、機械の体を得たとしても奴隷階級というものを覆せないことに気が付いたとき、革命を起こすことになります。
結論としては、鉄郎は人類の側から見れば英雄、機械化人からみればテロリストという存在になると思いますが、ぼく自身生身であるためか、鉄郎目線でこの物語を見ることになりました。
結果として機械化人たちがユートピアと謳った機械化母星は破壊されることになりますが、これに続く続編で、ある種の均衡が破れた世界では、機械化と永遠の命いうユートピアを掲げる勢力と、従来の生身の人間が切磋琢磨しながら生きる事こそが尊いという二大勢力が、宇宙全体で大戦を繰り広げることになります。
生身の人間側から見れば、ここで明かされる、機械化人の永遠の命のカラクリというものはおぞましいもので、生身の人間の魂を食って生きているという現実を鉄郎は見ることになります。そして、多くの機械化人もその事実を知らない。。ぼくは、ここに、ユートピアの本質を感じます。

基本的にマスコミ、特に新聞のように一般層にも購買されているわけでもない映像メディアは富めるものを利するのであり、アーティストもまた映像によって支配されているという現実があります。理由は簡単なことですが、当然ながら映像というメディアで紹介されるほうが、アーティストにとって有利なわけで、それに安易に出るための方法論を望むのは当然の成り行きだと思います。歌手も、美術家も、役者もです。
一つの壮大なテーマがあると思いますが、それは世界が一つになることでしょう。なぜならば、国境を必要としない富裕層の相互会のようなものが自然に発生して、それをイデオロギーとして保持しているからです。税制という国の制度を超えた存在であり続けるためでもあるでしょう。究極的な理想論にも通じるために、賛同されやすいということもあるでしょう。そして、何よりシンプルで、ポピュリズムにもうったえやすい。彼らに憧れる人々は、自分を彼らに重ね合わせて物事を考えたりするでしょう。そして、ほとんど叶うはずもない夢をみます。稀にしかいない例外を見ながら。言うならば、自分も機械化人の仲間入りでもできるかのような。
これに逆らう者に対しては、彼らは本能的に攻撃的になると思います。おそらく理詰めでは勝てない事も承知で、故に人気を得るために多くの民心を得るような美談を語り、問い詰められれば多数派を駆使し封じ込みをします。それに、多くの場合、人は自分を利するために偽善に走ります。貴族でもないのに貴族目線の連中も多くて、より上の層に賛同することも多々あったりします。
世界が一つ・・それで、本当に良くなるのならば、この世界は本当に幸せな世界です。そのような世界をぼくも望みますが、どう組み立ててもぼくの頭ではそういう世界の構築が可能とは思えません。

世界を一つのイデオロギーでくくって、それとは違う人は粛清・・新たな考えを持つものが生まれればまた粛清・・これも現実世界で起こった事実として存在します。更には、そういう世界はいくつも崩壊しました。
そもそも身近な人すら幸せにできない自分たちに、世界の人々を救うすべがあるのでしょうか?
マザーテレサ等の人物も、そういう考えを持つものは偽善者だと言っていますし、その通りだと思います。
現実として、人類にはそこまでのパイは無いということをまざまざと見せつけられます。

ぼくは、999の世界に非常にリアリティーを感じたわけですが、当時も現在も、宇宙の壮大なロマンのようなものとして、この物語が見られていることは非常に不思議に思えるところがあります。
完全な自由な星では、力だけが頼りであったり、特権階級である機械化人にとっては生身の人間は搾取の対象でしかないにも関わらず、生身の人間に憧れられる存在であったり、永遠の命という究極の理想論がもたらす不幸であったり。

この世界に似ている世界がありますが、それは現代の地球でしょう。
ぼくは、この作品の作者が、現代を予言していたとは思っていません。
この世界に似ている世界は過去にもあったのだと思います。
ぼくが知る限りでは、第一次世界大戦前夜〜第二次大戦までの世界です。

何故このようなことを書いているかということですが、それは、自分自身の中にある種の反発があるからです。
永瀬清子が優れた詩人であることに関しては疑いを持ちませんが、ぼく自身も独立した人間であり、自分の考えを持っているということです。
そのような感じで、この世の中には本来無数の考え方があるということです。

posted by 超画伯 at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | きよこのくら関連
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