2017年01月08日

生き物としての「死」

PK_19699.jpg
今日は、術後のウォーミングアップのようなものですが、5時間でなんとか60ショット程度でした。とりあえず、これはアニメーションの一コマということになります。基本的に、アーク溶接機とノミで、徐々に壁を破壊しているのですが、鉄板の壁は、予想外に硬く、簡単には溶けてくれません。アーク溶接機を上位のものにすれば、幾分楽にはなりますが、残念な事に現在の環境では20A以上のコードを引くことはできないため、非常に地道な作業になります。
今後、最低でも、一日200ショットの撮影が必要なため、工夫が必要です。
一応脚立等を使用しているのですが、これをワンアクションごとに撤収して、撮影という形になりますので、非常に過酷な労働ということになります。計算では、200ショット撮るためには10時間以上の時間が必要そうです。それも、もちろん要領を得ればということになります。
帰宅後は、毎回編集することになりますが、これに3時間・・トータルで最低13時間の労働が必要になりますが、色々な意味で酷使することになるでしょう・・
とはいえ、このイメージこそが腐敗のイメージでもありますし、まさに生き物として、生きながら腐敗していくイメージそのものを描くことが、ぼくの重要な役割でもあると思っています。
永瀬清子の泥臭い仕事を表現するためには、ぼく自身も泥臭い仕事をする必要があると思いますし、安易なものではあってはならないと思うのです。
昨今は、口も見た目もクリーンでスマートな仕事が好感を得るのでしょうが、ぼく自身の人生経験を考えても、それはあり得ないことです。そういうのは自分ではありませんし、物事に蓋をして、良いかっこをするのはいい加減にしろと言いたいところです。見えないようにしても、その蓋の下は無残に腐敗が進行していることに気がついたほうが良い。
最終的に、この建物を死に向かわせることで、生き物としての表現をします。
そして、その生き物が見た記憶を表現できればと思っています。
ただの、「物」が無くなるだけの表現では、これから失われていくものたちの尊さを本能的にすら理解できないでしょうし。

posted by 超画伯 at 20:40| Comment(0) | TrackBack(0) | きよこのくら関連
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