人間は物事を考えるとき、言語で考える傾向があると思います。そこでふと考えることですが、動物は一部を除き、言語以外で物事を考えているということを考えます。間違いのない事だと思いますが、観察する限り少なくとも脊椎動物以上、あと一部の無脊椎動物にも思考があるということです。その感覚がいったい何なのかは、言語をもってしまった人間には想像しがたく、ある意味、言語をもってしまったために失われた感覚もあるのではないかと想像します。
言語に関してですが、このツールの特徴としては、物事を狭く限定して、分かりやすくする性質と、文字化することと紙などのメディアで残すことで、以後の人々にも遺伝のように知識を残していくことができる性質で、ある意味経験が無いことですら合理的に知ることができ、物事を先代に引き続き行うことが出来るようになりました。そして、過去の経験の積み重ねを更に多の経験や、自己の経験等と組み合わせたり上乗せすることで、爆発的に社会を発展させる能力を身につけたと思います。
もし、この積み重ねが無いとすれば、個体の行ってきた経験の手数というものが重要になってくるでしょう。動物にとっての思考の積み重ねは、遺伝に組み込まれた本能と実経験の手数によるものだと思います。更にそれは言語に例えることの出来ない思考によって行動を決めることになるということです。
それが「嫌だな〜」とか「美味しそうだな〜」という感覚だけのものなのか、映像化による思考なのか、それとも五感、動物によってはもっと多くの感覚をもっているかもしれませんが、それによる複合的なものなのかは、言語があるがために、色々と感覚を失ってしまっているぼく自身には分からないところです。分かることは、彼らが間違いなく思考をもっているということだけです。
時々考えることですが、ぼくはそれでも、言語以外の思考をたまに使っているということです。根拠となるのは視覚芸術としての作品で、ぼくの場合は、最初から決まった形で現れてきて、最初から世界観は完成されたもので、コンテも参考スケッチも持たないことが多いということです。
これを特殊だと考える人もいるようですが、人が動物として進化してきた以上もっているはずの感覚で、ぼくの脳構造と何か関係があるのかもしれません。
こういう感じで、感覚的に危険だ!と感じたものを作品として表すこともあります。最初は、なぜ危険なのか分かりませんが、とにかくこのままだと、将来的に自分の身にも何か起こるかもしれないという感覚に襲われるということがあるということです。そして、その解決策としての作品が出来たあとに考えるのですが、その時に行うのが言語化でしょうか・・当初は言語があるわけではなくて、当然ながら、コンセプトのように、物事の行く先を限定する”言語”を持ち合わせることなく制作を行います。言葉は大きな空間を捉えることが難しいため、これを使う場合は、意味を凄く狭めて限定してしまいます。ある指標としては良いかもしれませんが、将来を決める場合、言語の意味に限りがある以上、ありがちな決定を行ってしまうために、独自の世界観を出力する以上は、本能的に避けるようになりました。ぼくにとっては、脳内に無数にある引き出しのサーフィンのほうが重要で、この時にニューロンを情報が通過する上で、複合的に組み合わされる構成こそが作品だったりします。そしてそれは、言語ではないかもしれませんが、原始的な感覚や行動・・「攻撃する」「逃げる」のような漠然とした決定によって統一感を持つのかもしれません。