ぼく自身は、自分の作るものに対しては、それなりのプライドもあり、言われなくてもそれなりにやるのだが、勝手なスケジュールを作り、それ以上は無理と言えば、勝手にやらないと判断し、作り話をして広め、足を引っ張る手合が存在する。
そういう手合による負荷ははかりしれず、数ヶ月間追い込み作業のように16時間を超える作業を行い、結論としては今のような状況に至っている。死ななかっただけでもマシというものだろうか?
仕事ではなくても、おそらくはこの類いの人は存在するらしいことは、覚えもない噂を聞けば明らかだ。本当に馬鹿馬鹿しい話だが、そういう暇人は存在する。
パートナーには、むやみに人を信用するなと言われている。というのも、ぼくの行動は、基本的に他人を信用しての行動なのだが、それが良くないらしい。孤高を目指すべきとのことだ。
ぼくの脳構造に関しては、他人には理解不能らしく、そのために疑いを持つとのことだ。ぼくの制作活動そのものも不信の原因らしい。ぼくが、教育課程を経ず、いきなり物事を始めるというのも、いきなり結果を出すというのも、どうやら異様な事のようだ。それどころか、ぼくが下手に他人に物事を学べば劣化することから、今はそれを避けている。例えば、ぼくはデッサンを学んだことがあるが、それにより著しく劣化した。今は分かるが、学習障害があるからだ。不確かな情報が、ぼくの観察眼を阻害するのだ。世の中は、一般的な教育システムとして、詰め込み型にできている。ぼくが気づいた事だが、それを観察に置き換える事でデッサン力に関しては修正した。今も昔も、最も結果に繋がるのは、物や世の中の観察と独自研究だ。ぼくがインコと蟻を飼っているのも、人間に近い知能と人間に近い社会を持つ生き物からヒントを得るためだ。
ぼく個人としては、これまで歩んできた複雑な課程を脳内で変換して複雑に構築しているのにすぎないわけだが、これは普通ではあり得ない事らしいのだ。
写真新世紀を知らずに、通りそうという雰囲気だけで出したのも、どうやらぼくだけのようだ。
要は、ぼくの脳内の引き出しそのものが異常で、普通は資料というものはストレートに出るものらしい。それが出来ないからこそ、ぼくは文字をまともに書けないわけだが、代わりに行われる寄り道が、思わぬ構成を生み出すという感じだろうか?おそらく文字の引き出しも、探せないだけで、どこかにあることは分かっている。