2022年04月13日

多動が酷い

一応、多動を抑える薬を飲んでいるわけですが、多動が酷い。。現在は多動だと、持病と化した頭の左側の片頭痛に悩まされるわけですが、このままでは数日頭痛というコースもあり得ます。。
ですが、頭の中の思考回路が止まらずで、もはやどうにもならない状態です。せっかく静かに過ごしていたわけで、刺激も避けていたのですが、残念なことに、ここ最近の多忙で、躁状態が覚醒してしまったようです。
この状態の時の知能は、平常時に比べて明らかに高い気がしますが、弊害のほうが多く、作品制作をするにも冷静さを欠きます。今までは制作で負荷をかけて抑えてきたわけですがそれはもはやできません。
ろくなことにならないので、早く収まってほしいのですがどうしたもんでしょうかね。

撮影できない

なんというか、撮影準備はするものの、撮影はできないという。ネタとしては盛りだくさんながら、やはり時と場所を選んだりするものなわけだ。
そういえば、レンズカルチャーから出品の催促が来るわけだが、そんなにぼくに撮影の歴史があるわけでもなく、はい出しますよと簡単に言えたものではない。いや、乗せられても無いものは無い。その昔、映像時代に催促に応じて痛い目を見たことがある。ボツ写真という方法もあるが、それも大してあるわけではない。ぼくの場合は、最初から撮るものを決めているのであり、だいたい失敗もしない。イメージできているなら、そういうことはあまり起こらないのだ。これは、アニメーションをやっていたことによる癖かもしれない。失敗すれば、下手をすれば数ヶ月の損失なのだ。一つあるのは微ブレ写真だが、そういうのは論外だ。
そういえば、ヤドカリの家の補足写真を撮りたいと思いながら数ヶ月。。何故かやる気が起きない。それよりベターなアイデアがあるからだが、一応完成させておいて良いものかもしれない。
あれは、ぼくの哲学的な背景を作品にしたものだが、出来としてはこれまでの作品より良いと思っている。ただ、地味かもしれないとも思っていた。
写真は、全体として、アートのようなものとしては、わりとデザイン的で商業主義的だと思ったが、地味かもと思ったのはそういう意味合いからだ。もの申したい事もけっこうあるが、仕方がない。そうではないものもあるのかもしれないが今のところ分からない。自分を曲げないためにも、それに合わせない事を心がけるだけである。実のところ、合わせない事は、非常に重要な要素だと思う。自分の物差しをフルに発揮すれば良いのだ。アートのようなものだとすれば破壊は重要な要素だ。それを行った人物こそが偉大と言われているのには意味がある。それがイメージの更新に繋がるからだ。批判はされてナンボの世界だろう。それが当たり前で無いほうがおかしい。チンケな成長にも繋がらないものはいらないが。
補足としては、あと数点あったほうが良いのは確かだ。複数枚で意味を循環させている作品なので10枚では意味が希薄だ。世界観の構築にはあと何枚か必要だ。ただそれはフィルムを使うので面倒くさがっているわけで、どうしたものかと悩んでいたりする。
posted by 超画伯 at 00:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 写真日記