パートナー曰く、アートやら写真やら映像やら音楽に対しての幻滅は計り知れないらしい。そういう話を聞かされたりもするわけだが、妙に納得するところもある。要は、ぼくも今のようなやり方に関しては、もう限界だろうと思っているところがあるからだ。
すべてを信じるわけではないが、地方における彼らの詐欺(霊感やらマルチ)というものは年々増加している感じだし、正直、社会問題として取り上げても良いレベルではあると思っている。更には、そういうものの思想統一の関係で、表現の多様性は乏しくなっているのも事実だろう。最近は、そのグループと被り、反ワクなども増えてきて、「あなたは何も知らないでしょうけど、影の支配者は・・」などの話も、何度か会って話をすると出てくるのも実情だ。
影の支配者・・おそらくは、社会の不安が生み出した妄想だとは思うが、それはレプタリアンのようなものであったり、ディープステートのようなものであったり、国際金融資本のようなものであったり、ユダヤ陰謀論のようなものであったりで色々だが、要はその不安の元というものが概念的で視覚化されるようなものではないから、そのような偶像を生み出して敵視して、その共通意識で寄り添うというような事をやっているのだろうと思う事がある。
すべてを信じるわけではないが、地方における彼らの詐欺(霊感やらマルチ)というものは年々増加している感じだし、正直、社会問題として取り上げても良いレベルではあると思っている。更には、そういうものの思想統一の関係で、表現の多様性は乏しくなっているのも事実だろう。最近は、そのグループと被り、反ワクなども増えてきて、「あなたは何も知らないでしょうけど、影の支配者は・・」などの話も、何度か会って話をすると出てくるのも実情だ。
影の支配者・・おそらくは、社会の不安が生み出した妄想だとは思うが、それはレプタリアンのようなものであったり、ディープステートのようなものであったり、国際金融資本のようなものであったり、ユダヤ陰謀論のようなものであったりで色々だが、要はその不安の元というものが概念的で視覚化されるようなものではないから、そのような偶像を生み出して敵視して、その共通意識で寄り添うというような事をやっているのだろうと思う事がある。
ぼく自身は、その元をどうとらえているのか?と聞かれれば、「資本の振る舞いのようなもの」としか言いようがない。資本主義というものは、半ば自然発生的で、競争原理や適者生存の法則も取りこまれているし、ある意味生命のように振舞う。つまるところ、人工ながら生命に近い類似性を持っている。自然界というものをより観察していれば気がつく事だが、振る舞いそのものは、自然界の複雑なあり方に非常に似ている。それが概念的なものだかこそ捉えようがないために、より不安を増大させるのだと思う。そして、人は、物事を善と悪という二軸というシンプルな思考に陥りがちである。複雑なものを複雑に見るということは、現状の二元論では難しい。だからこそ不安になる。悪を決めてしまうのも安心材料なのだ。
その振る舞いに寄り添ってきたものとしての表現というものがある。
ぼくには、障害があるため書類作成能力が低く、コンペに出すときには、社会学者の友人に書式を頼んでいるところがある。ぼくは、書類を見て、それを理解できない。自分の意見は書けるが、各項を一人で埋めるのは困難なのだ。それだけに、出すコンペに関しても、極力通りそうなところを選ぶ必要があるのだが、例えばサイトのトップ画像を見ると「あぁ・・」となる事が多い。友人に見せても「これ大丈夫?」と聞かれるのだが、その方向性は、ある意味はっきりしている。要は、広告と同じなのである。これがどういう意味を持つのかは人によって印象が異なるかもしれないが、間違いなく、今日的な資本というものの振る舞いに寄り添うイメージである事。
語弊があるかもしれないが、ぼくは資本主義を否定するものではない。そもそも、自然発生的なもののほうが、この自然界においては、持続可能性は高いと思えるからだ。問題としてあるのは、今日的な資本主義の有り方だと言えると思う。これが限界なのは、社会の不安を見ても感じるところだ。
ぼくは、友人には、「これでも、今の世の中ではマシな方なんだよ」と言っている。事実、そういう所でなければ通る気はしないし、仮に通ったとしても大したことにはならないだろう。友人は、ぼくよりも、そういう点に関しては、ずっと専門家でもあるし、ビジュアルを見て「これは随分と・・」となるのは、その観察眼の確かさを証明するものだ。
真面目な話、ぼくはそこを違う意識を持ってすり抜ける必要があるのだが、そのためには複雑ながら明確な考えを仕込む必要がある。これは、現代的な世相と一致しない考えを盛り込む上で必要な事だが、それが分かる見識を持った人に対する暗号のようなものでもある。それが通じるのは、とりあえずはその時点で一人いれば良いのである。
今後は、よりその精度を上げていく必要があるが、現状のシステムを利用する事で突破口が開けるのではないかとも思っている。そうなれば、幻滅だけではなく希望というものも見えてくるというものだ。まずは、パートナーにそれが可能であるという事を見せる必要がある。
その振る舞いに寄り添ってきたものとしての表現というものがある。
ぼくには、障害があるため書類作成能力が低く、コンペに出すときには、社会学者の友人に書式を頼んでいるところがある。ぼくは、書類を見て、それを理解できない。自分の意見は書けるが、各項を一人で埋めるのは困難なのだ。それだけに、出すコンペに関しても、極力通りそうなところを選ぶ必要があるのだが、例えばサイトのトップ画像を見ると「あぁ・・」となる事が多い。友人に見せても「これ大丈夫?」と聞かれるのだが、その方向性は、ある意味はっきりしている。要は、広告と同じなのである。これがどういう意味を持つのかは人によって印象が異なるかもしれないが、間違いなく、今日的な資本というものの振る舞いに寄り添うイメージである事。
語弊があるかもしれないが、ぼくは資本主義を否定するものではない。そもそも、自然発生的なもののほうが、この自然界においては、持続可能性は高いと思えるからだ。問題としてあるのは、今日的な資本主義の有り方だと言えると思う。これが限界なのは、社会の不安を見ても感じるところだ。
ぼくは、友人には、「これでも、今の世の中ではマシな方なんだよ」と言っている。事実、そういう所でなければ通る気はしないし、仮に通ったとしても大したことにはならないだろう。友人は、ぼくよりも、そういう点に関しては、ずっと専門家でもあるし、ビジュアルを見て「これは随分と・・」となるのは、その観察眼の確かさを証明するものだ。
真面目な話、ぼくはそこを違う意識を持ってすり抜ける必要があるのだが、そのためには複雑ながら明確な考えを仕込む必要がある。これは、現代的な世相と一致しない考えを盛り込む上で必要な事だが、それが分かる見識を持った人に対する暗号のようなものでもある。それが通じるのは、とりあえずはその時点で一人いれば良いのである。
今後は、よりその精度を上げていく必要があるが、現状のシステムを利用する事で突破口が開けるのではないかとも思っている。そうなれば、幻滅だけではなく希望というものも見えてくるというものだ。まずは、パートナーにそれが可能であるという事を見せる必要がある。