持続可能な目標といいますか、SDGsのロゴみたいなものを眺めていて思うのは、これ、ぼくが小学生のころから言われてきたことの焼き直しのような感じで、あのころから考えると、日本においては、むしろ後退感もあって、なんだかなぁ。。という気分にもなります。
ぼくも気がつけば、今は障害者そのもので当事者ですし、色々と世の中変わったものです。
幼い頃は、とくに環境問題には危機感があって、未来はもう無いのでは?というぐらい危機感がありました。あと、世の中は冷戦状態でしたし、人類滅亡というのも、わりと身近な問題だったと記憶しております。
そのあたりは、なんとか乗り越えられた?のか、今も生きておりますが、ぼく自身は、冬の時代という感じです。
というのも、ぼくは、数年前に障害者になったのであって、その時の無意味感というのは半端ではなく、不可能な試みを多くやっていたのであり、これまでの人生の徒労を呪ったものでした。少なくとも、20年前に分かっていれば。
2018年の入院以降、ぼくは、作品の合理化と、ぼくの能力に見合った最適化を目指したのであり、これまでの夢を諦めました。その時の喪失感から、現在でも焦りや病気など色々な形で残っております。もう、この世界で生きていけないと、何度も死にたいとも思いました。
障害者になったというのは、法的にそうなったのであって、それ以前は健常者に他ならず、それ以前に刷り込まれた「常識」というものに苦しんでおりました。いや、今も苦しんでいるのかな?「常識」なのだから、誰でもできて当然というような事でしょうか?「常識」の中には、容易にこなせるものもありますし、いくらやってもダメというものもあって、その境界もはっきりしておりました。未だに、やればできるとか言われるわけで、そこは説明するのもしんどいところです。
ぼくは、SDGsの、このロゴ?のようなものを見て、意味はなんとなく分かりますが、書かれている事は役所的な感じで、言わば書類的でもあって、要は学習できない内容という感じです。これを問われても、ぼくは回答を述べる事はできないでしょう。今だから分かることですが、これを吸収するためには、脳に壁があるということです。
ただ、このままでは、世の中が持続しないということはよく分かります。おそらくは、ぼくの脳内のネットワークのあり方は、普通の人とは異なるのではないか?と思っておりますが、こういう端的なものではなくて、連鎖する世界に対する認識は、人よりもあるのではないか?と思っているというか、気づいているという感じです。
最近、深夜にファミレスに行く機会が増えましたが、昨年よりも、今年のほうが、おそらくホームレスと思われる人は多くなりました。冬は、寒さをしのぐためなのか、ファミレスにそういう人がいることは多いです。
年齢は、ぼくに近い人が多い感じで、食事のあとは、皆うなだれているという感じです。どういう事情があるのかは分かりませんが、今のままでは、こういう人は増えるでしょうね。
未来は明るいのか?暗いのか?はさておき、世界は繋がるのでしょう。これは、どちらかといえばSDGsを推進しようという企業が大企業という感じからも、強者が決めた強者が賛同しやすいイメージでしょうし、言ってることは確かな事ですが、末端は、これについて行くことができないという不安を抱くのではないか?ということも想像できます。
ただ、形がどうであれ、グローバリズムは止まらないのでしょうから、ある意味これを受け入れて世界の端々にある問題を解消していくしかないというのは、多くの人にも理解できる事だろうとは思います。今、SDGsを言われるということは、おそらくは、これはグローバル化とセットなのだと思います。その負の部分を如何に抑えるのかということでしょう。何故なら、その内容は、放置すれば、確実に悪化していく現実についての是正に関してのスローガンだからです。
問題は、グローバリズムを急進的に行うのか、それとも緩やかに行うのか?ということになるでしょうね。反グローバリズムの政権があったとしても、グローバル化が止まるという意味にはならないと思います。個人的には、緩やかでなければ困るというのはありますが。
少なくとも、ぼくの頭では、もう過去のような、今よりローカリズムの進んだ世界などは、ぼくが生きている間は無いでしょうし、当時ですら、グローバル化は進んでいる最中でした。国際化社会とか言ってましたっけ?ならば、その中で生きる方法を考える必要もあります。
どちらにせよ、ぼくは、何らかの形で戦うしかありません。黙っていれば、「誰も置き去りにしない世界」からも置き去りにされかねませんしね。