たまに、この言葉を聞くわけだが、これを聞くと頭を抱えたくなる。
というのも、ありのままの自分など、分かる人間がいるわけがないからだ。しかも、”ありのまま”を語る人たちは、だいたいその時代のある主義の洗脳を深く受けているという印象がある。特にだが、その事に気が付いてもいない作品というものを見ると嫌悪感を感じるし、気がついてあえてやっているとか、プロパガンダの類にしか見えないのだ。
近年の”ありのまま”など、ネオリベの主張に他ならなかったりで、ただただ格差拡大と環境破壊のための運動に参加しているのに過ぎないのだと、冷ややかな目で見てきた。
時代というものを見ても分かるが、”ありのまま”など、ある時代は共産主義だったり、ある時代は武士道やら騎士道だったり、常にあり続けるのは信仰だったりで、その”ありのまま”はヒエラルキー上位の都合に過ぎなかったりするものだ。”ありのまま”の自分の正体は、皆と同じ自分ということに他ならない。だから「貴様は非国民か!」と多数が言う状況も、そういう類の”ありのまま”として成立する。
「思い出せ!ありのままのお前はこうだったんだろ!」という洗脳だ。圧力によって与えられたものが、”ありのまま”の自分だ。そして、それは、その時代においては良い事だとされていたものだ。それとは異なるものは「異端」であり排除するべきものにすぎないのだ。どれほど、下位の階級を虐げても良いのであり、奴隷がいて良いのであり、異民族を殺戮するのも、我々が幸せを成就するための善行であり”ありのまま”なのだ。しかし、冷静に考えるとどうだろうか?
未だに、日本における主な”ありのまま”などネオリベにすぎなかったりする。そもそも日本ほどにSNS等の奴隷になりきっている国が、それほど多くあるだろうか?と思う。それから引き剝がされれば生きていけないと思えるほどの村社会であり村人の集団で、それこそネオリベとの相性も最悪なのにだ。
未だに、日本における主な”ありのまま”などネオリベにすぎなかったりする。そもそも日本ほどにSNS等の奴隷になりきっている国が、それほど多くあるだろうか?と思う。それから引き剝がされれば生きていけないと思えるほどの村社会であり村人の集団で、それこそネオリベとの相性も最悪なのにだ。
そうすることで、果たして誰が幸せになったのだろうか?気が付いたころには、能天気な発言も無くなるだろうが、それでも、ヒエラルキーの上位が安泰ならば、自らにも希望があり、将来は自分もそうなるのだと夢でも見続けるのだろうか?
今の地方の夢の正体など、こればかりだろうに。