2021年10月01日

明るいイメージで埋め尽くして世の中から負のイメージを追っ払う

ぼくが思うに、明るいイメージで埋め尽くして世の中から負のイメージを追っ払う、そうすることで素晴らしい世の中が実現する。というような言葉を顕著に聞くようになったのは、ネオリベラリズムの台頭とともにというイメージがある。もちろん自己責任論というものもその辺りから言われるようになったが、それは果たして本当に世の中を素晴らしくするのか?ということについて考えてみる。そもそもが排除というものを聞こえよく言っているだけなのだが。

ぼくは、ここに、商品としての「良いもの」というものを思い浮かべる。
資本主義が行き着いた結果、ネオリベラリズムが台頭するのだが、実のところその実現のためには、負のイメージというものが邪魔だったのではないか?と思える。コミュニティアート等は、特に明るいものによって街から暗雲を吹き飛ばせというようなものだった。街おこしは、明確で明るいものでなければならないし、そうでなければ、商品としてのコミュニティーは売れないのだから、とにかく負のイメージを隠す必要があったのだ。それはネットという拡散力も関係があるかもしれない。

負のイメージの中にはマイノリティーという存在も含まれる。社会から抑圧された、彼らのイメージは、コミュニティーからは排除されるべきものになった。ネット時代であることも含め、マイノリティー批判というものは、より陰湿で激しいものになったのではないか?
そもそも、マイノリティーであるぼく自身は、それを肌で感じており、その反発は年々強いものになった。
そう、世の中から排除されるべきものとしてのぼくの表現というものがある。
そして、それには商品価値は見いだされないのだ。明るくない表現は甘えであり、商品として成立させたいのであれば、「コミュニティーを明るくするもの、或いはせめて無味無臭で迷惑をかけないものを作れ」ということになるのだろう。それでは、既にぼくという自我が作り得る作品ではないが、必要なのは商品、しかもネオリベラリズムの明るい未来を啓蒙するようなものでなくてはならないのだ。
そういう考えは、特にネオリベラリズムに特化した生き方を啓蒙するような、自己啓発セミナー等によって広められたのだから、その流れに乗り遅れまいと、いわゆる企業や行政の人々の中の参加者にも浸透することになった。支援側の意識によっても、作品群の方向性は変わるのだ。

ネオリベラリズムにせよ何にせよ、そういうものを推進させるのには、ある種の排除が必要なのだろう。特に経済全体主義ということになれば作品などという異物は必要がなく、商品だけが必要なのだ。
作品はなく、客寄せパンダである商品だけを重視したのがコミュニティーアートの成れの果てでもあるし、結果としては、コミュニティーにおける問題点を見えなくしたのであり、改善の機会は失われ、それ故劣化したのだ。
コミュニティーというのは、何も街や村だけの事を言っているのではなく、写真なり映像の村もそうなっていると言える。

少なくとも、マイノリティーというものは、マジョリティーとは異なる価値観を持っている可能性は高いのであり、彼らが、何らかの問題意識や異なるアイデアを持っている可能性は高いのだが、それを負のものとして排除した結果、何のアイデアも作れず改善もできない社会が出来上がったのだと考えられないだろうか?

関連