2021年10月15日

自分のために草を分ける

自分のために草を分けるというのは、社会のため地域のためとか言う人にとっては利己的な考えかと思われがちで、特に公共的な媒体にとっては、その意味を伝えにくいという現実があると思うが、簡単に説明してみる。

結局のところ、生きにくい人生を生きるマイノリティーにとっては、黙っている事はただただマイナスであり、社会によって、その存在そのものに蓋をされるのである。
だから、生きるためには黙るわけにもいかず、自らの生きる場所を探して草を分けるしかないわけだ。その草分けというのは、仕方なくやっているものだ。

そこを利己的と思うのは自由ではあるが、短絡でもある。
誰かが草を分けたのであれば、そこには道が出来、行き場のない人たちの通り道になるということだ。これは、草を分けた人そのものの意図ではないにせよ、結果としては、ある特定の人たちに生きる道を示したことになるのではないか?

ということ。

2021年10月05日

ありのままの自分

たまに、この言葉を聞くわけだが、これを聞くと頭を抱えたくなる。
というのも、ありのままの自分など、分かる人間がいるわけがないからだ。しかも、”ありのまま”を語る人たちは、だいたいその時代のある主義の洗脳を深く受けているという印象がある。特にだが、その事に気が付いてもいない作品というものを見ると嫌悪感を感じるし、気がついてあえてやっているとか、プロパガンダの類にしか見えないのだ。
近年の”ありのまま”など、ネオリベの主張に他ならなかったりで、ただただ格差拡大と環境破壊のための運動に参加しているのに過ぎないのだと、冷ややかな目で見てきた。
時代というものを見ても分かるが、”ありのまま”など、ある時代は共産主義だったり、ある時代は武士道やら騎士道だったり、常にあり続けるのは信仰だったりで、その”ありのまま”はヒエラルキー上位の都合に過ぎなかったりするものだ。”ありのまま”の自分の正体は、皆と同じ自分ということに他ならない。だから「貴様は非国民か!」と多数が言う状況も、そういう類の”ありのまま”として成立する。
「思い出せ!ありのままのお前はこうだったんだろ!」という洗脳だ。圧力によって与えられたものが、”ありのまま”の自分だ。そして、それは、その時代においては良い事だとされていたものだ。それとは異なるものは「異端」であり排除するべきものにすぎないのだ。どれほど、下位の階級を虐げても良いのであり、奴隷がいて良いのであり、異民族を殺戮するのも、我々が幸せを成就するための善行であり”ありのまま”なのだ。しかし、冷静に考えるとどうだろうか?
未だに、日本における主な”ありのまま”などネオリベにすぎなかったりする。そもそも日本ほどにSNS等の奴隷になりきっている国が、それほど多くあるだろうか?と思う。それから引き剝がされれば生きていけないと思えるほどの村社会であり村人の集団で、それこそネオリベとの相性も最悪なのにだ。
そうすることで、果たして誰が幸せになったのだろうか?気が付いたころには、能天気な発言も無くなるだろうが、それでも、ヒエラルキーの上位が安泰ならば、自らにも希望があり、将来は自分もそうなるのだと夢でも見続けるのだろうか?
今の地方の夢の正体など、こればかりだろうに。
posted by 超画伯 at 14:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

ノートパソコン直る

長らく壊れていたノートPCが帰ってまいりました。
購入半年で、保証内なので無料なわけですが、半導体不足のため部品が無いとの事で2カ月近くかかった感じです。
とりあえずは、各所チェックも入ったでしょうし、当初よりは信頼のおける状態になったという意味では、個人的には補償範囲での故障はウェルカム派です。

今年は、新品のカメラも壊れましたが、これも修理が遅く1カ月以上かかりました。部品が無いようです。
ただ、新品の修理が入ったカメラは、点検が入る事でピントから何から精度が上がって帰ってくるので、そのほうがありがたいですね。
今まで、そういう事は何度かありましたが、工業製品というものは完ぺきではないので、荒らさがしされたほうが、良くなるというのは確実ですね。というのも、量産体制の工場でのチェックは、サービスでのチェックほどではないという点で。
その後のトラブルは、どれも、圧倒的に減っているという結果が、うちでは出ている感じです。
posted by 超画伯 at 00:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2021年10月01日

明るいイメージで埋め尽くして世の中から負のイメージを追っ払う

ぼくが思うに、明るいイメージで埋め尽くして世の中から負のイメージを追っ払う、そうすることで素晴らしい世の中が実現する。というような言葉を顕著に聞くようになったのは、ネオリベラリズムの台頭とともにというイメージがある。もちろん自己責任論というものもその辺りから言われるようになったが、それは果たして本当に世の中を素晴らしくするのか?ということについて考えてみる。そもそもが排除というものを聞こえよく言っているだけなのだが。

ぼくは、ここに、商品としての「良いもの」というものを思い浮かべる。
資本主義が行き着いた結果、ネオリベラリズムが台頭するのだが、実のところその実現のためには、負のイメージというものが邪魔だったのではないか?と思える。コミュニティアート等は、特に明るいものによって街から暗雲を吹き飛ばせというようなものだった。街おこしは、明確で明るいものでなければならないし、そうでなければ、商品としてのコミュニティーは売れないのだから、とにかく負のイメージを隠す必要があったのだ。それはネットという拡散力も関係があるかもしれない。

負のイメージの中にはマイノリティーという存在も含まれる。社会から抑圧された、彼らのイメージは、コミュニティーからは排除されるべきものになった。ネット時代であることも含め、マイノリティー批判というものは、より陰湿で激しいものになったのではないか?
そもそも、マイノリティーであるぼく自身は、それを肌で感じており、その反発は年々強いものになった。
そう、世の中から排除されるべきものとしてのぼくの表現というものがある。
そして、それには商品価値は見いだされないのだ。明るくない表現は甘えであり、商品として成立させたいのであれば、「コミュニティーを明るくするもの、或いはせめて無味無臭で迷惑をかけないものを作れ」ということになるのだろう。それでは、既にぼくという自我が作り得る作品ではないが、必要なのは商品、しかもネオリベラリズムの明るい未来を啓蒙するようなものでなくてはならないのだ。
そういう考えは、特にネオリベラリズムに特化した生き方を啓蒙するような、自己啓発セミナー等によって広められたのだから、その流れに乗り遅れまいと、いわゆる企業や行政の人々の中の参加者にも浸透することになった。支援側の意識によっても、作品群の方向性は変わるのだ。

ネオリベラリズムにせよ何にせよ、そういうものを推進させるのには、ある種の排除が必要なのだろう。特に経済全体主義ということになれば作品などという異物は必要がなく、商品だけが必要なのだ。
作品はなく、客寄せパンダである商品だけを重視したのがコミュニティーアートの成れの果てでもあるし、結果としては、コミュニティーにおける問題点を見えなくしたのであり、改善の機会は失われ、それ故劣化したのだ。
コミュニティーというのは、何も街や村だけの事を言っているのではなく、写真なり映像の村もそうなっていると言える。

少なくとも、マイノリティーというものは、マジョリティーとは異なる価値観を持っている可能性は高いのであり、彼らが、何らかの問題意識や異なるアイデアを持っている可能性は高いのだが、それを負のものとして排除した結果、何のアイデアも作れず改善もできない社会が出来上がったのだと考えられないだろうか?

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