2021年09月29日

ワクチン2回目

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ワクチン2回目打ったんですが、相変わらず肩がだるいです・・これ、どうにかならないものでしょうかね・・
あと、激しく動くと危険そうな気持ち悪さになってしまいましたので、大人しく睡眠です。1回目より良くないですね。
これでも効き目の制限はありますし、まぁ半年後はどうなのか分からんのです。でもまぁ、これで行動制限が少しばかり減る事を考えると、まだ良いのかなと。
それにしても、コロナはいつまで続くのか・・
今活動するのも、リスク高いですし、来年になったらもう少し余裕が出来ることを期待して、こそこそ隠れて何かする予定。

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2021年09月26日

もうすぐ転卵停止時期のはずだが・・

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これが、どういう状態なのか、さっぱり分からない。
とりあえず、1個目は明日転卵をやめて、2個目は明後日に転卵を止めてみることにしてみる。
なんか生きているのかどうか不安だ・・温度と湿度は安定させてたが・・

孵化予定日付近に、ワクチン二度目の接種がある。
今日は散歩で、足がつってしまった。
とりあえず、接種までに、体調を整えておく。

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彼岸花も、もうすぐ終わりだな・・
posted by 超画伯 at 01:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2021年09月24日

無いのと同じ

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体調不良だが、まぁ、それを言えば、いないのと同じ扱いを受けるのが世の中の常だろう。というか、異物に関しては、そのように扱われるというのは、時とともに気がついてくるものだ。

最近、定形発達脳というものに対して疑いを持っている。そもそも、学習障害も自閉症も、言ってみれば、只の個性にすぎないわけだが、平均値を超えると、昔からよく表現されているような、投石の対象になる。
人に対して投石というのは、群れの特権なのだろうと、最近は思うようになった。
日常、どんなに良い顔をしていても良い事を言っていても、ある場所で群れは、人に石を投げつけているのだ。その後、何もなかったかのように、良き人に戻るわけだ。
昔からあった出来事として、群れは力のある者には従うが、それを失えば、力を失った者に対して石を投げつける。集団でそれを行うことで、身を守ろうとするのだろうか?

個人的には、ぼくは話し相手を求めているのにすぎない、話の通じる人を捜し求めている。そのために、ステージを変えようとする。今いるところに、話し相手はどうやらいないようだ。
実のところ、世の中、誰も何も追い求めているわけでもないし、過去の誰かを追っていたり、自己投影しているだけだったりで、べつに何も捜し求めていない。群れにいる以上、それと同じでいることが第一の保身だろう。
その中でも、輝かせてください、そういう集団で守られているのがアカデミズムだよ。その名(過去のお偉方の羅列)の元に、異端は排除できるからね。まぁ、中世なんて、異端を排除することで、社会を思考停止させて、それこそ、少数の人間に石を投げつける、只の信心深い良き人によって維持してきたような社会だからね。だからこそ宗教を利用したわけで。そういうのは罪じゃないらしいから。
現代も、本質は変わっていないが、そういう事は無い事にするのは、めっぽう上手くなったという感じだ。

最近、ファッション発達障害というのがいるらしい。まぁ、只のミーハーなんだろうが、そういう心理でいられるならば、世の中にお仲間はいくらでもいる事だろう。
発達障害=才能なんて思ってたら、大きな間違いだよ。いくらそれを叫んだところで、才能なんか出てこないし、その中の数少ない才能ある人たちまで潰してしまう事を考えた方が良い。
別に、発達障害ではなくても、世の中から外れてしまった人たちは多くいるだろう。
実は、そういう人たちが群れとの戦いの中で、生存のために獲得した異なる価値観こそが、才能の正体なんだよ。

2021年09月23日

劣っているはずの人間

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どうやら、ぼくが愛想をしても意味がないらしい事は、周りの態度を見れば分かる。
つまるところ、ぼくが分からないということと他人が分からないということでは、意味が違うと捉えられているようだ。普通なら、分からないなら教えてあげようとか、そんな感じだが、ぼくに対しては、劣った人間が生意気なという態度すら見せる。どうやらぼくを許せない人間がいるようだ。大切な賞が汚されたとでもいういうような。そんな事は、とっくに気がついてはいるが、分からないふりをしている。
とりあえずだが、障害のあるぼくは、ある種の目線を通せば、劣っているはずなのだ。そういう態度をとる人間に対しては、以前から少々苛立ちは感じていたものの、仕方のないことだろうと流してきたものだ。
まぁ、つまらない人生なのだが、たからこそ、仕方なく、そうではないのだと物を作る。なんなら、そういうつまらない人間に対しては、絶望せざるをえないぐらいの力の差を見せても良いと思えてくる。そういう連中が見えない領域を、一応は見えるわけで、実のところ運でもなんでもなく、そういうのを実力というわけだ。
あと、そうしないと、どうしても分からない人間というものはいるようだ。実にあほくさい。ぼくが、仕方がないから作っているというのは、冗談で言っているわけではない。やはり、作らないで良い状況というものが一番素晴らしいのだ。そうなることが一番の幸せだ。それに、そういうものは、生への執着でしかないのだから。
ぼくという障害者がいるとして、それが動くことで、ある種の境遇にある人が救われる事があるとしたら、まだぼくという存在にも意味があろうというものだ。
勿論、そういう意味が喪失した世界こそが素晴らしいわけではあるが、今の世が異種のものを隔離しようとするならば、未だに草は分けていくしかないのだ。

2021年09月22日

化学反応か、電気信号か

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結局のところ、今写真などと言われているものは、感光材による化学反応やら、ダイオードが光を察知した電気信号みたいなものをとりあえず見えるような形にして写真と呼んでいるわけだが、その点に関しては、けっこうどうでもよい事だ。
とりあえず、写るということに関して、ああだこうだなんだろうけど、そもそもプロセスそのものがまったく異なるものを同じ名前で呼んでいるわけで、何らかの結論に至るものではなさそうだ。
とりあえず、それが錬金術の類だと思うのであれば、そこに問題は無いのかもしれないが、何らかの真理があって到達する結論があると思っているとするならば、それは一種の宗教みたいなものなんだろうな。
機械を通す前に、身体を通すというプロセスを体験しているとするならば、また違う考えにも至るというものだろう。
最終的に、ものを見るというのはそういうことだ。まぁ、見ているだけなのだ。
間に、写真という言葉、分別、シンボルを挟んでるだけで 。
posted by 超画伯 at 23:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 写真日記