2021年08月07日

分からない、見えていないのだろうか?

どうも、ぼくが見てきて経験してきたことの集積のようなものは、ぼくだけのものらしい。そこまでは当然の事だ。それを人に説明するわけだが、それを理解できる人は、ほとんどいない。

ぼくは、人に分かるような答えは言わない。基本的には、考えてもらうためなのだから当然だ。それに、言葉で固定化出来るような人のような生き物のの振る舞いというものをほとんど知らない。流動性が無いものに生を感じないわけで、ぼく自身の体もそうだが、何もしないで生きているわけではない。必ず動いている。動きをやめなければ死ぬし、そうなると、体は腐敗という形で別の動きを得ようとするだろう。気体になり流れていくものもあれば、水となり流れていくもの、他の生き物に取り込まれるもの、色々とあるが、止まってはいない。死体が発見されれば、それは燃やされるだろう。気化するだろうが、植物に取り込まれたり、それが動物に取り込まれたり。

こんな感じなわけだし、ぼく自身も常に不安定要素を持つことによって思考している。安心感を得るために、絶対的価値観のようなものを持とうともしていない。そんなものは無いからに他ならない。その状態にあることで、ぼくは制作というものをしている。なので、他者の作り上げた作品という名の資料を持ち合わせてもいない。つまるところ、直接的なパクリも必要としていない。ぼくほど、作品に関する勉強をしていない人は珍しいかもしれない。特に写真作品の研究などはしたこともないのだ。写真というものは、視覚的なものなのだから、視覚的なものの配列で表現は可能だ。

ここ最近で、最も思考のために良かった空間は病院だ。あれは、なかなか良い。静かで、情報量は少なく、制限も多い。ただ、食事は与えられ、生きるのに必要なものは与えられるように出来ている。外で言うところの、やる事は無くなるわけで、そうなると、頭が色々と考えるわけだ。何かを流動させなければ、なかなかに辛い時間なのだろうが、考えるのは面白い時間だ。夢のようでもあり、これまでに脳内に蓄積されたものを整理するような時間でもある。ただ、ぼくが思うような思考するためには、それでも足りなかった。

経験的に、絶対的価値のようなものを格言として言えば、それで人が安心することは知っている。そうすることで、その部分については、もはや考える必要が無いからだ。
ただ、それにすべてを任せている人たちは、まずもって何も見えていないような発言をする。本人は見えているつもりなようだが、理解に乏しい。格言を言うが、その格言がどのような実践によって得られたのかを知らない。つまり知らないわけだ。

そういった人たちは、見えないものを想像出来ない事が多く、見えないければ何も無いと思うこともあるし、他の格言があれば、それを絶対視して、こちらに押し付けてきたりもする。
結局のところは、想像力の欠如なのだろうが、そういう人たちによって、世の中が暴走しているように感じなくもない。固定化された考えを持ってしても、世の中の流れが無くなる事はない。ただ、現在の状態の持続性を大きく失うことにはなるかもしれない。それに、変化は良い方向に動くわけではなさそうだ。