2021年07月05日

子供の社会 複雑さの変容

ふと思ったのだが、ぼくが知る子供の社会というものが、少々気になった。というのも、少なくとも、ぼくが子供のころとは、大きく変容しているからだ。
情報量と質についても大きく異なる上に、子供のうちからイデオロギーというものを感じる事になる。というのもネットの影響もあると思う。ネット社会の動きというものは、むしろ社会性昆虫に近く、何かの信号で、大きく人の動きが変わるのである。それが、嘘が本当か?等は、さほど重要ではなく、そのように動くから動くのである。

同年代の人たちは、今の若い連中はヤバいと言っている。確かに、今のような社会は危ういし、故にヤバさというものはあるかもしれないが、そのヤバさには、ぼくたちの年代も含まれる事も忘れないでほしい。両者があってヤバいということになる。

では、ぼくの子供時代の情報量が少なかったのか?と言われるとそうではない。家族というか、社会としての教育システムだが、祖父母等の老人が参加しており、親もいて、比較的兄弟も多い、そして、面倒を見るのは、近所の住人、他者の親や祖父母も含まれていた。つまるところ、世代と価値観を超えた教育を受けていたことになる。故に、共通項のズレからか、随分と間違いだと叱られるケースも多く、基本的には自己肯定感は、現在の子供のような感じではない。
今の子供の対人関係は、少なくともそれよりはシンプルな場合が多いだろうとは思う。なので、正解の幅は広く、根拠もなく、自分が正しいというケースを見る事は多い気がする。表現世界を見てもそうだが、今は随分とあっさりしているケースが多い。
ぼくたちの場合も、基本的に自分が正しいのではあるが、何かが根本的に異なる気がする。何か言いようのない、ドロドロとしたものが、ぼくたちの時代にはあったような気がする。大人からの抑圧というものもあっただろうし、その大人によって教えられた社会の約束事も、大人になってすぐに崩壊したのだ。

世の中が進むにつれて、ぼくたちの時代のドロドロ感は否定されていくことになる。それが起こり始めたのはネット以降だろうか?匿名では、相変わらずドロドロとはしているものの、人の意見の流れというものは、随分と単調だし、ある印のようなものを持って、ある種の集団を仲間だと思い、ある種の集団を敵だと思って、互いを駆逐しようとしているように見える。まさに社会性昆虫の、それに近い動きだ。それが、あまりにも単調な意見にしか発展しないため、これを真に受けるとするならば、かなり単調な思考の持ち主にしかなり得ないような気がしなくもない。
一方で、実名制では、聖人のような振る舞いをする人が多いのも事実だ。その両者を上手く切り替えられるのが今の世代なのかもしれないし、現実でも切り替えの出来ないような人には高齢者が多いのも事実だ。

ドロドロとした中には、自分の正しさ、つまるところ正義と、それに対する悪への葛藤があるのだろうか?
年をとって認知が衰え、対応出来ずに、表の世界でも同じように振舞う人が多いとも聞くが、彼らがそういうものへの対応が出来ないとするにしても、50代とかは若すぎる気がしなくもない。
そもそも彼らの育った社会の中に、そうなる要素があったのではないか?ぼくたちの時代は、少なくとも正しさの幅は狭かったし、それで少なくとも今よりは上手くやっていた。
その正しさの幅の狭さというものが、ネット社会ではイデオロギーのように動き、歪な形で現れているのが現在ではないのか?

そして、子供たちは、声の大きい大人を見ながら育つ。彼らは自分が正しいように振舞うのだから、馬鹿なように見えても、少なからず影響はあるはずだ。そして、今の若い世代は、表と裏の顔を使い分ける事には、長けているように見える。最初から、そのネット社会を知っているのだ。どのような形で育ったのであれ、完璧な社会というものは無いのが事実だ。
それを見てドライと感じるのか?ただ、社会に対してのドロドロ感の無さが、関心の無さに繋がりうるというのもあるだろう。そして、子供時代の実社会の狭さを含め競争心は低いと思う。もちろん、全員がそうではないが、相対的な意見として広く見ればそう見えるということだ。ここでの話は、個人のケースと、社会とでは、ある程度切り離さないと理解するのは難しい。そもそも個人の話をするならば、ぼくなど、過去も今も、おかしな人間ということになる。

とりあえず、今の社会というものが危ういというのは、あらゆる面から危ういのだが、その危うさの量が、社会のキャパを上回ったのか、その危うさすら言ってはならない社会になりつつある。それが、ドロドロ感の否定にも繋がってはいると思う。