2021年07月27日

写真でも撮りに行きたい しかし雑念に対する雑念がなぁ。。

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ここ最近、PCで作業ばかりしているわけですが、たまには写真でも撮りに行きたいものです。カメラを眺める事はやっているわけですが、事務的な写真以外は撮っておりません。
実のところ、自己満足で写真を撮り続けていた身としましては、それを習慣で続けたいというのが、深層心理の中にあるような気がするわけです。なんですが、ただ綺麗なだけの写真を撮るというのも、その時は良いのですが、後で、無駄な時間だったなぁ。。と思ったりで、後味の悪さというのも出てきてしまいました。雑念の雑念とでも言いましょうか。なんだか残念な気がします。 貧乏性でしょうか?普通に楽しめば良いんじゃなかろうか?

最近、カメラには冷静になってきて、最新機種に興味がなくなってきたのは、良い傾向です。なんと言っても、写真、全然変りませんから。。冷静になってきたんですかね?

最近は、SNSもやらないわけで、リア充アピールも必要ありませんし、なんかそういう事をやれよという同調圧力もありません。
というわけで、こういうブログの垂れ流しというのは、良いものだなと改めて実感です。
そうですね。。何かを忘れないための備忘録とでも言いましょうか。
とりあえず、良いも悪いも付かないのは良い事です。ぼく自身の純度が高まろういうものです。
ネットごときに使われるのもなんですし、そういうのから離れると、案外自分を見つめる事ができるもんです。

とりあえず、写真でも撮りに行きたいなぁ。。とか。飽きたら撮らなきゃ良いだけですし。
ただ、頭痛や体調不良で、思うように出来ないのは残念ではありますよ?そのしんどさのおかげで、考える事や、動く事が、如何に大切だったのか?と気付かされるのは+ですね。案外体調が良ければ、「何時でも出来るわ」と、過信して、相変わらずダメなままで過ごすかもしれませんし。
posted by 超画伯 at 03:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 写真日記

2021年07月24日

世の中とは異なり

一応、うちにはテレビも無いので、当然オリンピック等は見ていない。あと、駆り立てられるものがあり、自分が可能な限りは、撮影や、編集を続けている。人に与えられた時間は、とても短い。

自分の中で、自分を探している。この行為で自分というものが見つかる可能性は、0%だ。ただ、それを行う必要があると思っている。
結論として分かっている事を何故行うのか?それは意味が無いのでは?という言葉もあろうが、知識の上で、その0%を知っている事と、それでも探すという事では大きく意味が異なる。何故なら、そこには思考というものが、間に入ってくるからだ。
この思考無しでは、強度というものはあり得ない。

思考というものは、言語だけで行うものでもない。他の感覚も駆使する。それは、一瞬で何かを構築することもあれば、時間を要するものもある。ただ、経験上優れているのは、一瞬で出てくるものだ。これを時間を要するほうの思考で補完する。そうすることで、作品が成立するのかどうかを決める事になる。

ぼくが、現在何をやっているのか?を知っている人は、ほとんどいない。パートナーですら、一部しか知らない。
これまでの経験からの思考の純度を高めるためだ。それを、可能な範囲で行っている。
頭痛が続き、体力も無いが、休みながらの作業になる。

ぼくの価値観が、他者と大きく異なっているのは、もはや、ぼくが生きるための力になりつつある。この段階で、他者と触れる事は、ぼく自身が持つオリジナリティーを破壊することになる。他者の意見に、オリジナリティーなど無いわけで、それは、過去の何かと照らし合わせた何かにすぎない。「もっと、○○みたいにしたほうが良いいよ」という感じで。

凄くもないものを凄いと言う愚

この件に関しては、非常に簡単に答えたい。

ここ数年の日本という国は、誰の思いつきなのか、凄くもないものを凄い凄いと言いながら、何かの錯覚に陥っていた。その症候群なのか、多くの人が、ある種の妙な洗脳に陥っているのも事実だ。

単純に個人として考えてほしいのだが、凄くもない自分を凄い凄いと言ったところで凄くはならないどころか、それは成長を妨げるのではないか?少なくとも、自己を見つめた上で凄いという言葉は選んで言う必要がある。重要なのは、ある種の成長体験なり、それを理解した上でその言葉を言わなければ、ただの勘違いにしかならない。

少なくとも、成長というものを体感し、理解し、成長方向に意識し、努力を重ねた上でそれを言わなければ、劣化にしか繋がらない。

今のところの、ぼくの体験上分かるところはそこまでだが、自分に凄いと言い聞かせる事は、一時的にはドーピングのようにテンションを上げるのは事実だ。ただ、長くは続かない。快感だけのために、そういうことを言うのではなく、自分を深く見つめ続ける事が必要だ。

と、ぼくの教室の受講生にも理解してほしいところ。
posted by 超画伯 at 04:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2021年07月21日

サブカルはサブカルだから良いのであって、メインカルチャーにするのは・・

オリンピックがいよいよなようだが、正直何かに当たればクズばかりで嫌になる。クズがクズを呼んでいるのか、それとも、この国そのものが、日本人自身が、我々は良い人という演出で嘘をついて作り上げた虚構なのか・・
とりあえずだが、サブカルはサブカル、これをメインカルチャーにしたところで、劣化以外に何もないだろう。そもそも創造性というものを軽視し続けた日本人には、それを成し遂げる力が無い。それがオリンピックで露呈しているとしか言いようがない事態だ。
知人にも、当たり前のようにパクれば良いじゃないという人は多い。つまるところ、「自分はそれしか出来ないのだから他人が出来るわけが無いよね?」という考えの元なのだろうか?最近は、うんざりするので、そういう事は聞かないようにするようになった。そういう行為が、過去の偉人へのリスペクトとかいう言い分も少々聞き飽きた感がある。
実のところ、誰もがオリジナルの人生を歩んでいるはずだ。そこからの学びだけでも、実は大勢の人たちの考えは、少しずつ異なる。それの再現だけでも、実はオリジナリティというものは存在すると思う。そう言えば、「世の中にオリジナルなど無い!」と言う人もいるだろうが、オリジナルとオリジナリティは違うものだろう。そもそも人間は、創造など出来ない。だから創造性という言葉があるのと似たようなものだ。もし、オリジナリティーそのものすら存在しないと言うのであれば、文明など、そもそも存在しないだろう。

個人的に、サブカルが嫌いなわけではない。が、それをメインカルチャーにして、二次創作ばかりの世界というのもどうかと思う。そういうものは淀むだけだし、当然似たような物の椅子取りゲームにしかならず、そうなれば、悪意があり軽薄な人ほど有利になるのは簡単に想像できる。自分が頑張るよりも、他者を陥れるほうが、よほど確実なのだから。それこそ、正直者が馬鹿を見るのであり、頑張る価値の無い世界が作り出される事になる。そういう状況を見てきた人々は、その軽薄さを力だと勘違いして崇めるようになっている。残念ながら、お偉いさんもそういう状況に陥っているわけで、必死に、その匂い(軽薄さ)を嗅ぎ分けているのが実情で、尊敬に値する人は少ないのではないか。軽薄なモノを見つければ実績に繋がるのだから良いと思っている人は多いとしか言いようがない、倫理観も崩壊しているし、思想も哲学も無いのだろう。事実こうなってしまっているわけで。こういうのを腐敗と言うのだろうなとは思う。それで文明が滅びるのであれば、それは自業自得としか言いようがないのだが・・心配のしすぎだろうか?
こんな中で頑張る事ほど虚しいものは無いが、本能的な面で言えば、それでも頑張るしかないのだ。

まぁ、仕方ないので、頑張る事にする。
posted by 超画伯 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2021年07月20日

苦しいなぁ・・おい

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ネズミを以前捕まえて、山に逃がした。残念な事だが、このネズミの子供は殺してしまった。助ける事が出来なかったのだ。子供の兄弟たちは、兄弟を助けるためなのか、次々に罠に入ってしまった。ネズミは、仲間の苦痛を共感する能力を持っていて、仲間を助けようとする。人間の考え出した罠は、この性質を利用しているのかもしれない。
この親ネズミだけは、普通の昔ながらの籠型の罠で捕まえる事ができたので、助ける事ができた。
クマネズミは、あまりに頭が良いので、捕まえるのにも致命傷を与えるような仕掛けが必要だったりする。他に方法が無かったのだろうか?

ぼくは、基本的に生き物を殺したくはない。残念ながら、生き物を食って生きてはいるが、それは望んだ事ではない。
ここまでして生きて何になるのだろう?
べつに、子孫を残したいわけでもないし、ぼく自身は滅びるべき遺伝子を持っていると思っている。仮に、ぼくが子孫を残した場合、半分は自閉症スペクトラム障害を持って生まれる事になる。遺伝するのだ。
ここまで、とても苦しい人生だったし、今は、歩くこともしんどい。体力は、そもそも無かったが、今は更に無くなってしまって、老人のようだ・・生きてて、あまり良いところも無かったような気がする。こんな人生は、ぼくで終わりで良いのではないか?
学習障害で、圧倒的な劣勢に立たされていたが、なんとか頑張ろうと思った。ピンポイントで、花火のようなものを上げる事は出来たが、それも続かない。それが限界で、何度も倒れた・・
こうして文章を書くにも、頭に激痛が走る。なんだろう?戦おうとすると、心臓がきしむように痛む。何かで、本気で戦おうとすると、心臓神経症を起こす。写真新世紀のグランプリ選考会の時も、それが起こった。何か神経の回路がおかしいとしか言いようがない。なんでこんな体なんだろう?これを続けて意味があるのだろうか?

自閉症スペクトラム障害を持つぼくには、共感性が乏しいらしい・・そうか・・他の人は、もっと共感力もあって、いわゆる人間らしいのだろう。たぶん、その共感力に、ぼくは生かされてきたのかもしれない。
そういえば、倒れても、ぼくは、誰かに手を差し伸べられて生きている。ぼくには、それを返す力が無いのに、そうやって生きながらえてきた。
ただ、それだけでは、ぼくはダメだろう・・
何か、世の中のためになることをしたい。それが何なのかは、ぼくには分からないのだが。