2021年06月21日

敗北感と生への執着からの転換期 とりあえず、死なんて不意打ちでやってくる

最近、わりと生への執着心が無い。というか、ある種の敗北感が薄れつつある。
ぼくの心は、幼少時代からの敗北感に満ちていた。なんせ勉強も運動も出来ないのだから、それはそれは悔しかったのだが、よく考えたらというか、集団妄想、つまりその集団が集団を勝手に定義している言葉から解放されつつあることで、わりと生きるのも死ぬのもどうでも良くなくなった。
そもそも、生きることに意味はないが、死ぬことも意味はない。そんなものに集団妄想を抱いて苦しんでるのは、人間という種だけだ。というか、種って括りすら、悩みの種になる。

ぼくは、敗北感からなのか、どうしても勝ちたかった。しかし、世間で言うところでの勝利みたいなものでは、大して満たされもしなかった。つまるところ、言葉が定義しているつもりになっていた自分というものが勝利を認めなかったし、それで何かを知ったわけでもない。

わけの分からない状態と思われるかもしれないが、精神病院という空間のほうが、よほど何かを知るというか体感するという意味では有意義なものだった。
多くの人が自己のプライドで苦しんでいた。洗脳の形はさまざまだが、様々な意味の無いものに意味をつけて、それに縛られて苦しんでいる。
プライドというのは、恐ろしい煩悩のようなものになり得る。その煩悩の力で、ぼくが動いてきたのも確かだ。
ただ、ここに来て、「それ、プライドの問題で苦しんでるよね?」と言いたくなるような話をけっこう聞いたし、他者に対して、そのように答えた。もう少し丁寧な言い回しではあるが。
実に他人事である。同様に、他者から見ても、ぼくはその状態であっただろう。
ある男性が60歳にもならないのに年金を貰う事を恥じる。客観的にみて、それはかなりどうでも良い事だ。人は同じではない。人間が言葉の上で決めた年齢というものは、全員一致しない。平均値があるだけで、早く老いる人もいれば、老いない人もいる。老いなくても、病気で衰える人もいる。
「そんな甘えは許さないぞ!」という人もいるだろうが、そういうのは、ただの雑音だと気がつくべきだ。なせなら、つい二三年前に、そういう事を言っていた人が、ここでプライドを傷つけられ、年金生活を送っている。その自らの発言で自らが傷つき、死にたいと苦しんでいる。若い頃から、将来自分に降りかかる事も想像せず、未来の自分にトラップをかけていたわけだ。そういう連中には、生きる価値も無いのだと。

この体はこうだったんだ、まぁ仕方ないよね?と、思えるようになれば、随分と楽になる。それに、そのほうが、自分と異なる他者に対する寛容さを育てる事になもなり得るし、プラスと考えても良いのではないか?

ぼくの、プライドに関しての根深さは、体感してもらうしか知ってもらいようがない。勿論、そんな事は不可能だ。
「いや、お前より、あの人のほうが苦しんでいる」と言われたとしても、言ってる本人も分かってないだろう。案外第三者である、あんたのほうが苦しいかもね?という事だって成立しうる。なんてったって、客観的にそれが分かるのであれば。
というか、ぼくはマゾなのか、自分の苦しさの上に苦行を行う変態だった。もっと苦しめば、もっと上に行けるはずだ!
それが、ぼくのアイデンティティーなのか?いや。。
とりあえず、その段階というものは必要なものではあったのではないかとも思う。

「そんな甘えは許さないぞ!」という狭い視野から自己を解放させる過程とでも言おうか。。

もうすぐ、雑音の多い場所、この壁の外に出ることになる。
痛みも苦しみも不安もあるし、それは相変わらず生命維持装置のままだ。ただその中の不安の要素は、随分と弱まっている。「神様は、保証ってものを忘れてる!」てな感じの死んだ後の不安。これが、随分と弱まった。とりあえず、死なんて、不意打ちでやってくる。そんなもんだ。ほっといても死ぬ。

プライドからの勝ち負けではなくて、なんか知らないけどやっている。そんな感じでも案外良いのかもしれない。
別に、バカだと思われても痛くも痒くもないわけで。そう思われるだけでも、何だか役にたってる感は、何故かここでは感じる事が出来た。笑いを提供出来たわけで。

今日は、ある年上の女性に話しかけられて、だいたいこのような話をした。
女性は「男の人は、苦しそうにしてるよね」とも言った。
「そりゃ、無駄なプライドばかり高いんですよ。それと現実のギャップに苦しんでる。まぁ、ぼくの事ですね」と、ぼくの心の声で終わることにする。

代替するもの

何か添え物でも無いと寂しい事になるが、どうやら、はっきりと何かを認定しずらい写真だとしても、ここで写真を撮ることはまずいらしい。というのも、それをすると、重要さの境界が分からない人は、何でも撮ってしまう可能性があるし、何故それが駄目なのかは理解できる。
ぼくの写真は、ある種特別な意味をもった企業秘密的なものを撮影はしていないが、これの行為を理解できない人(入院者)は多いだろう。
というわけで、過去記事の写真は削除した。

しかし、ドキュメンタリーとしては危ういにせよ、ぼくが言いたい事を他の写真で代替することは出来る。
要は、導きたい結論は同じわけで、その作品そのものに至るまでの道しるべとしての写真を退院後に撮るという手法を考えた。
それに、ある種のリアリティーを持たせるには、強度が必要である。
が、それは可能だし、言葉だけの伝聞よりはリアリティーを持たせる事は可能だ。
何かの制限や、ある種の状況から回避することで、考え出すに至った手法でも、時には、その時点よりも豊かな表現を得る事はあり得る。

何故なら、ぼくは、その制限のある状態を知っているが、外に出れば、その制限は大きく無くなる。
リアリティーを持たせるめ、ある種の戒律みたいなものも必要になる。その一つはスマホだろう。その時点で使い得た唯一のカメラがそれだからだ。どちらにせよ、制限された自分の心境というのは、重要な要素だ。
それ以外の代替するものを考えるのも面白い時間だ。ここでは説明しないが、アフォーダンス的な事象によって引き起こされるぼくの振るまいとも言える。
もう一つ、ここまで苦労して、再現したにも関わらず、最後に破戒の要素を混ぜるのも面白い。

今の自分の写真を撮れないのは、少々残念ではある。似たような写真は、ホテルでもどこでも撮れるわけではあるが。
ただ、この状況を知っているのは、ぼくでしかないわけだから、代替写真でも、他者からすれば、真偽は分からず、同じ意味として成立する。そうなれば、真偽については、さほど重要な問題ではなくなる。そもそも、ぼくが、何を感じ、どういう感覚をもったのか?に作品としての最も重要な要素があるからだ。仮に、ぼくがどういう表現を行ったとしても、感覚を直結出来ない以上、他者にとっては、それは例えのようなものにしかなり得ない。

写真が無いことで、意味が希薄になった日記もあるかもしれないが、それは、この病院から外に出れば、いくらでも別の写真を撮ることで再現できる。
実は、非常に安易に、それは再現出来るほどに、この部屋の情報量は少ない。というか、撮った写真の情報量は少ない。別の言い方をすれば、どこにでもあるし、苦労もせず撮れるものばかりだ。その少なさこそが重要で、だからこそ考えるに至ったことは多い。
写真の、本物とフェイクの違いについて、だれがそれほどまで理解できるだろうか?
というような、新たな思索を楽しむきっかけにもなった。

これから本当の事を述べる。
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「これが、病院での写真だ!」
と言っても、何のリアリティーも無いだろう。「えっ!?ペット可の病院なの?」とか、洒落た想像が出来る人は、ちょっと素敵だ。しかし、ぼくは嘘はついていない。これは、動物病院に、ペットのインコを連れていったときの写真だ。病院だが、ぼくを表すとしても、今とは別の状態を表したものだ。ここまで言ったのだから言うが、写真の作者(撮影者)はぼくだ。

そもそも、文字表現は、何かを表す場合、代替する性質を持っているものだが、感覚としては、ダイレクトではない。故に、情報量的に、視覚的なものは、この日記に書いているような、こういうケースでは問題になる。分かるだろうか?
代替するとしても、視覚的な表現は、言葉の情報量を上回るということにはならないだろうか?