前の日記で、ある種の閃きのような事を書いたが、これは、脳科学的には、何かと何かの知覚的情報がニューロンや、分泌物で繋がって、何らかの解答を得たという事になるのかもしれない。
それは、何かを考える参考にはなる。ただ、それで核心めいた事に、言語的に気がつくわけでもない。何度も言うようだが、それは気がつかないというよりは気がついているが、言葉では解釈不能だということだ。
ただ、感じたものを他者に伝えるすべは無いことも、ここ最近の日記で述べている。
では、作品というものを、どう説明すれば良いのか?に関して言えば、不可能な試みをしなければならないのかもしれない。そうでなければ他者は共感を得る事が出来ない。だから、ぼくが書く文章というのは、核心について書いているわけではなく、何とか、そこに気がついてもらおうという試みにすぎない事になる。つまるところ、「嘘」である。
とりあえず、知覚を優先した考えということで、知覚優先主義とでも言っておこうか。。
ある日、ぼくの身に変化が起こる、突然、鳥類の視知覚を得たとする。その時点から、ぼくの体は、紫外線を可視化することに成功した。なんと紫外線の色が見えるのである。
高名な視覚学者でも解剖学者でも良い。その学者が調べて見ると、確かに目には、紫外線の受光体があり、紫外線で書かれた絵をぼくに見せると、脳が反応している事が分かる。
学者は言う 「紫外線は、どんな色をしていますか?」
ぼくは困る、今まで見えなかったものが沢山見える。例えば鳥類だ。かれらの体のカラフルな模様は、以前よりカラフルになっている。それどころか、雌雄同色だと思っていた鳥には、雌雄で色が異なる種まである。
この事実をどう伝えれば良いのか?雌雄で色が違うよ!とは説明出来る。しかしどんな色なのかは答える事が出来ない。当たり前だ、皆、知覚としての紫外線の色を知らないのだ。
ぼくは、ペットのインコに「でも見えるんだから仕方ないよね?」と共感を求める。
この話は、嘘っぱちだが、他者の感覚を知り得ないという意味では有効だ。
人間同士であれば、そこまでの違いは無いだろという前提で、ぼくたちは物事を他者に伝達する手段として言葉を使うが、だがしかし。。
少しそれるが、ぼくは単純な意思の伝達手段として、インコにも言葉で物事を伝えている。面白い事だが、別種のインコ同士が、人間の言葉で遊んでいる様子を確認してしまった。
片方が「いないいなーい」というと、もう一羽が「ばっ!」という遊びだ。片方は、いないいないパートでは、うつむいて顔を隠して、ばっ!パートでは、顔を上げるあたり、本当に言葉の区分を理解しているのかもしれない。
人間のみと思われていた、変な文化を教えてしまって申し訳ない。しかし、動物における言語というものを考えるのは面白そうだ、彼らが、物体を言語以前からある領域で区分している可能性は非常に高い。思考の中に、何タイプかの相容れない感覚がある事は間違いない。また考えてみようかどうしようか。
そういう動物が、言語に閉じ籠った人間の精神を解放し、自然界に対する、より深い共感への橋渡しをする可能性だってある。
自我とは何なんだろう?
体験して物を知るというのは、おそらくは日本人にとっては、当たり前のような感覚があるだろう。何故なら、そういう文化があるからだ。なので、例えばなしという「嘘」も、話の中に多く盛り込まれる。それによって「ああ!そうだね!」と気がつく人もいるだろう。別解釈をする人もいるかしれないが、その別解釈についても何らかの閃きに至るヒントになるかもしれない。限りはあるが、脳のニューロンを他者と接続出来ないかぎり、そういう方法論も必要になる。
というか、今ここに書いているのが、その練習だ。言語発達の遅れが大きくあるぼくが、それを試みている。勿論、ぼくは、これを紙に書くことは出来ない。PCやスマホの補助があるから出来る。字は、あまり書けないのだ。
西洋の場合は、文化が大きく異なるだろう。現在の知覚世界を知るならば、その原典からたどらないと分からないというか、学問の体型としての理解を得るのは困難だ。
しかし、なんと未だに、赤と、青と、黄色という知覚を説明出来ない。ある一方で、別の感覚(知覚)は、その色を「知っている」にも関わらずだ。
さて、ここで、ぼくたちは、日本におけるものの見方があるという事に気がつかないだろうか?いわゆる、論より証拠というやつだが、作品の出力方式としては、直観によって得た「証拠」を提示して、その後、文化の違う他者たちに極力分かりやすく説明する。という方法が、ぼくたちの文化としては正当と考える事が出来ないだろうか?
勿論、ある程度の確信もなく、ハッタリをかますだけでは、強度は得られないだろうが。。