言葉というものは、区分とか分別の類いだろう。便利だし、日本人のぼくは日本語で物事を分別しているのかもしれない。
しかし、実態は、そんな簡単なものではなさそうだ。
ここに書いている文章というものは、一部は言葉で考えているのかもしれないが、おそらくそれがすべてではない。ただそれは認識が難しいのか、それとも出来ないのか?
少しばかり、感情移入出来るものとして、この食事を上げてみる。
少々感傷的になっていたこともあり、この動物の死骸の事を想像していた。要は、その想像を観賞して自己に重ねて同一化し
て悲しむという事をしていたわけだ。
ここから、どう文章を書こうかと考えてみる。
この何百か何千か分からないシラスの物語だ。
海の中で、泳いでいると、上から網のようなものが現れ、海から引き離され窒息死をしたのだ。さぞ苦しかっただろう。こんな、しょうもない、ぼくなんかを半日生かすために、こんなに沢山。ぼくは、数知れぬ苦しみの上に生きているんだな。。
ところで、彼らは「苦しい!」と思ったのだろうか?たぶん、思っていない。その「苦しい」は、人間の区分でしかないのだ。それ以前に、そのような言語で考えないだろうし、その知覚の世界の捉え方は想像しようもない。ぼくたちは、人間との類似性を考えて、言葉で区分して想像いるだけのことだ。
ただ、そこには重要な点があって、ぼくたちも、その言葉以外の捉え方は可能なのではないか?ということ。
というか、捉えているっぽいのだが、それを言葉にすることは難しい、というか、厳密には不可能だ。
人間は言葉で知覚を翻訳出来ない。言葉は不完全だ。多くの試みは存在しただろうけど、どうしてそう感じるのか?なんて分からない。
こういう事を考えると、左脳付近が痛くなる。たぶん、必死に言葉で答えを探しているのだ。もしくは言葉を組み合わせて、それを証明するのか?
まぁ良い、このシラスから、ぼくというものの領域について考えてみる。
これは、というか、これらはぼくだろうか?果たして、どこからどこまでがぼくなのだろう?
言葉の区分では、おそらくは、「それはシラスだ、あなたではない」ということで、「だからあなたには何の影響も関係もない」ということになるかもしれないが、これを書いている現時点では、シラスはぼくに取り込まれ、おそらくぼくの中のいたるところの要素なっているはずだ。それどころか、ぼくは言葉の区分としては、別の生命体と言われるものを取り込んで、変換しまくった集合体なのだ。そうなると、「ぼく」そのものが危うくなる。
そもそも、ぼくはどこまでぼくなんだろう?母親の半分はぼくだろうか?遺伝子という言葉の区分で言えば、酷似しているはずだ。そういう感じでたどっていけば、遺伝子区分であればほとんどの生き物は、ぼくを含むのではないか?
この文章そのものもおかしい、シラスに関しては見ているのは写真であり、取り込んだものはモニター光だ。
こんな問答に意味はないだろうか?
たぶんぼくは、言葉に洗脳されて多くの発見を見逃している。ただ、こうして言葉で書くことで、ああ、そうだったと思える。
この問答を言葉で繋げてみれば、最終的には、この世界はぼくの要素を含むことになる。じゃあ、世界イコールぼくなんだろうか?そうなると写真のシラスもぼく??いや?
ぼくは、知覚と言葉で、ぼくというものを認識しているのか?そのぼくというものを確認する術はない。
ただ、一つ分かっていることは、言葉で解釈出来ない、何らかの知覚のようなものがあるのは、絵を描くことで、ある程度確認できる。それは、もう少し広い領域を、より複雑に捉えていることは間違いない。視覚は、シラスを見ているが、そこだけを見ているわけではない。食器や米や、その周辺も見ている、そして、それを口に運ぶまでの処理の手伝いをする。
言葉とは違い、それを一瞬で処理している。
視覚は凄いことをやってのけた。その意味を、言葉でどこまで解釈出来るのか?
と、色々と考えてみた。
とりあえず、意味というものは人間という種族が言葉という言葉を成立させた場合にだけ生じるらしい。あと、自己洗脳による人間だけの集団幻想的世界を作っていることは容易に想像できる。
実のところそれすらも危ういものだが。
文化や言語体型の違いだけでも実際の意味のニュアンスは異なるだろうし、個人一人一人とっても、知覚する世界の感覚は違うだろう。例えば赤や青という色を、ぼくとまったく同じに捉えている人はいないだろう。他人の体に入れるとしたならば、あれ?と思うはずだ。あと網膜面積や両眼の離れ方だけでも、立体視そのものに違いが生じる。そういうものを何とか言葉に擦り合わせているだけなはずだ。
「はずだ」では困る!
では、よく言われるティラノサウルスの両眼視の事を書いてみる。テイラノサウルスは、他の肉食恐竜に対して、目が離れている上に前を向いていた。故に、ティラノサウルスは両眼による立体視が出来たという科学的見解、これは納得出来ないだろうか?
さらに彼らと同じ双弓類である鳥類の色覚について述べると、彼らはRGBの他に、紫外線を視覚化出来るとされている。RGBの三色で知覚している人間には、その知覚世界を想像しようもない。要素が無いものを体感することは出来ないからだ。その受容体があるわけだが、では、その受容体の強弱についてはどうだろう?痛覚ならば分かりやすいかもしれないが、これは個人差があることは知られているし、そういう神経組織の密集度を考えても違いがあることは容易に想像できる。例えば、子供の頃のほうが転ぶと痛いという感覚はなかっただろうか?実際の転倒の衝撃は、身長も高く、体重も重い、更に体が硬くなっている今のほうが大きい。
ここまでは言葉で説明したが、ぼくは言葉ではここから更に深い部分は必ず行き詰まる。
何故なら、単純に色だ、色を何故そのように感じる事が出来るのか?知覚にとっての色とは何だ?色すらも生物間では大きく異なる。確かではない。何故、そのように感じることが可能なのか?その事を言葉で説明出来る人はいるのだろうか?
それに、個と言われる区分で言えば、それらの体感する知覚は、すべて異なる事になる。その点に関する無知が、社会という言葉の区分の中での現代的価値観における諸問題になっている事も多々あるだろう。
にも関わらず、ぼくたちは、恐ろしくこの世界を簡略化している。
物事を、もっと広く捉えようとするならば、ほかの感覚が必要なのだろう。
その感覚で他者がぼくを捉えるならば、ぼくは少なくとも自閉症ではなくなる。もう少し複雑なものとして、ダイレクトに捉えられるだろう。そういう言葉の分別がなくなるわけで。