2021年06月14日

同調圧力と行動


この国において、同調圧力というのは、重要な位置を占める文化だ。一見、モラルがあり、正しい判断の下、人々が動いているように見えるというのも、実のところ、同調圧力を無意識に常に感じていて、それに従っての行動である事も多いだろう。

ぼくは、同調圧力というものを感じるとき、自我の崩壊を避けるため、そこから逃げるといことは多い。それに染まったとき、ぼく自身の独自性をうしなう事を恐れているし、仮にぼくに高度な感覚がある部分が存在したとしても、それは封印される事になるだろう。もしくは、おちゃらけてごまかすしかない。バカなフリが必要だ。
基本的には、この現象からか、日本においては、二次創作こそがメインカルチャーになっている。前例主義に支配され、新しい何かを作り出す事に関しては非常に苦手な状態だ。


同調圧力というのは、イデオロギーのようなものも形成するが、それはあくまでも平均値というものが重要になる。
仮にぼくに高度な感覚があったとしても、それを打ち消そうという力が働く。
おそらく、多くの人に、何らかの高度な感覚があるとしても、同調圧力の前には、無意味になることが多い。それは、多数決をもって、それは間違いである!という意見のもと、間違いだと受け入れざるを得ないからだ。それを受け入れられないならば、彼、或いは彼女からは、村の印のようなものは消え、村から排除されなければならないだろう。もしくは遺恨を残し、ごまかしながら村に残るのか?より低い存在として。
村には、やって良い事と悪いことというものが明確に存在する。やって良いこと、それは以前から村の中では周知である事象を用いて行う必要がある。それを逸脱した行動はNGである。たとえ、それが、村にとっての発展を促すものであってもだ。
高度な感覚や意義ある発見のようなものがあるにせよ、それはほとんどの場合、平均化された人々の集団では認識出来ない。
こちらから集団の感覚が見えたとしても、逆はない。
仮に、その集団のなかに、その感覚のようなものを理解出来た人がいるとしても、自己保身のために多勢のほうに付く可能性は、極めてたかい。
もはや、完全な文化として根付いている。


そういう場合は、逃げるという方法もある。ただ、それも自分の意思のようでいて、この社会の中では、同調圧力に支配された行動ととる事も出来る。
その逃げるという行動に至るエネルギーの源は、同調圧力そのものだからだ。ただ、それでも、自我というものを守るという意味では、逃げたほうが良いこともある。
作家であるならば、二次創作を避けるという意味では、今の所良い選択肢の部類に入るのかもしれない。
もっと良い方法があるのなら良いが。