ぼくには、驚くほど自己肯定感が無い。仮に、そのようなものが表れても、歪な形でしか表れない。
先日の話だが、弟が見舞いに来て、必要なものを置いていった。
だいたい、弟は、世の中の物事を綺麗事に収めたいところはあるが、うちの兄弟に、自己肯定感が無いのは、その通りだ。殴られて育ったし、出来ても褒められない、それ以前に出来なかった。「殴れば、漢字も覚える、逃げるから覚えないんだ」と殴られたが、ぼくは未だにその頃の漢字を書けない。何の事はない、カラクリは、学習障害によるものだったが、当時はその考えは無かった。運動能力も極めて低く、走ると動きが気持ち悪いと言われ、ますます萎縮した。ぼくは、人との違いを見せてはならない事を知っていた。いじめの餌食になるだけだからだ。だから、本気を出していないだけだと演じた。秘めた力を持っていると。だが、当時、クラスで一番何も特技が無かったのはぼくだった。いつかは、努力で救われるとは思っていたが、その希望を頼りに生きてきた事もある。
現在の、事情としては、外の世界での軋轢だろう。
敵と味方の比率としては、2:6:6、敵、味方、無関心および傍観者の比率らしい。ぼくには、健常者のそれとは一致しないだろう。皆、条件は同じというが、たぶんそれは数字による思考停止だ。平均値を述べているのだろうが、皆同じではない。
ぼくには感謝がないというが、実のところ、そこを通りすぎている。でもまぁ味方がいないわけではない。
そこを見るべきだという意見だ。
友人が「中村さんは、凄い賞も取って、実績も凄いのに、なんでそういう雑音を聞くのか?」「自分とは異なる、素晴らしい力を持った人たちに出来ない仕事を任せて、自分を楽にする、そうすることで、今よりもぐっと楽になるよ」「雑音には何の意味も無いから」
そうかもしれない。
味方もいる。
ぼくが見ているのは、過去の亡霊なのか?たぶん過去にぼくを認めなかった人の多くが、ぼくを認める事は、ほとんどないのだ。過去に戻る事は出来ないし、そこに戻って、自分を認めさせる事も出来ない。大人になって賞賛を仮に受けたとしても、それは自己肯定感には繋がらない事に気がついている。それどころか、何が凄いのか、さっぱり分からなくなる。自己肯定感の低さからくる悪循環だ。どこかで折り合いをつけなければならない。幸せになりたいが、方法が分からない。
今、ここに生きている人の多くは、自分の居場所を守る事に精一杯。その中の最底辺だったぼくが、逃げ出したいのに、そこに固執することは、実に矛盾している。
ぼくは、賞を取っても賞賛されても充たされない。それどころか、その中にある雑音ばかりを聞こうとしている。
たぶん、心の奥に、そこが自分の居場所なんだという意識がある。
入院して読めないが、直前に一冊の本を買った。
ぼくは、彼と会って、仕事をする事に、今のところなっている。仮に、コロナ等の事情で無くなったとしても、会う事にはなるかもしれない。
彼は、黒人と日本人のハーフとでも言うのだろうか?今は、この言葉も差別なのかな?
それは良い。ぼくは団体で、「そういうことにしている」人々には興味がない。
彼は、彼自身だ。複雑さを持っている。
序文だけは読めた、親子に近い年齢差もあるが、少なくとも、ぼくよりは成熟した考えを持っていると思った。ぼくは幼い。
だが分からない、人の心の中は複雑だ。
何か回答があるだろうか?