2021年06月16日

うつ病を経験したぼくは、その病気の症状を理解しているのか?

まずは、解答から述べるが、ぼくはうつ病についての症状を理解していない。
ぼくがより理解しているのは、(ぼくの身に起こったうつ病症状)としか言いようがない。

診断したのは医師、うつ病患者は、ぼくと、もう一人、患者Aだとしよう。

医師:うつ病を知識として知っているが、体感としては知らない。患者の症状に対する選別。

ぼく:うつ病を体感として知ってる、過労により発症したものと思われる。あまりの苦しさに安楽死を望んだ。

患者A:うつ病を体感として知ってる。ギャンブル依存により、追い詰められた事により発症。死にたいとは一度も思っていない。


おそらくは、うつ病を経験した医者もいることだろうが、その点は共感性という意味ではより患者に寄り添えるかもしれないが、治療に差が出るのか?は不明だ。

では、ぼくが言えるうつ病というものについて、それが万人に同じような事が起こるのか?と言われると何とも言いようがないという事例が、会話として出てきたので、忘れないように書いておこうと思う。

まず、言える事だが、ぼくに起こったうつ病に関してだ。これを言葉で言い表す事は困難を極める。何故なら、これまでに感じた、どの苦しみとも異なる感覚を経験したからだ。
その苦しみの波というものは、ある病気というか、多くが経験するであろう波と波長は似ているかもしれない。それは、強烈な腹痛に似ているということだ。波は、ずっと猛烈に痛いと言うよりは、上がったり下がったりする。そのピーク事に「苦しい!助けて!」というような痛みを感じたことがある人は多いだろう。腎臓結石等を経験した人も、同じような波を感じた事があるかもしれない。
ぼくのうつ病も、似たような波を感じていたわけだが、それは痛みではない別の感覚だ。そういう五感のようなものとは、まったく異なるものだと記憶している。
あと、その時の苦しみは、上に書いた、腹痛や腎臓結石とは比較にならない苦しみだった。ぼくは、「頼むから殺してくれ」と苦しんだ。それが、何時まで続くのか分からないほど続くわけだ。精神がダイレクトに攻撃されているわけで、脳に本来あったはずの防壁のようなものが取り払われているのが体感出来る。精神力という、よく言われる言葉には何の意味もなくなる。我慢がどうとか、そういう問題ではないわけだ。
そこを、ただ苦しいと言っても、何ら表現力はない。物凄く?この世のものとは思えない?何とも形容のしようがない。痛くも、暑くも寒くもないのだから。ましてや、臭いわけでも、辛いわけでも、眩しいわけでもない。
信心深くもないぼくだが、その時だけは、神秘的というか、人間以上の存在に、救いを求めた事も書いておく。藁をも掴もうとするし、突然そういうものがあるのだと、頭の中に作り出したのかもしれない。
極力分かりやすいように伝えたいが、文章としては、このくらいしか書けない。

この経験を患者Aに言うと「ええっ〜!なにそれ!」「ぼくのは、うつ病じゃないのかな?死にたいとは思わないし」
という、あっさりとした解答だった。
他の人にも、症状は聞いたが、どれも違う解答だった。ぼくの場合は、向精神薬の副作用でアカシジアを起こし、極度の頻尿で脱水状態を起こしていたので、なにかが違ったのかもしれない。事実、向精神薬を弱めることで、症状は劇的に改善した。
オマケにだが、インフルエンザも発症していた事を書いておく。脱水症状の処置に、頻繁に病院に行ったため、院内感染し
たものだと思われる。

ぼくは、患者Aに「いや、それもうつ病でしょう。たぶん個々で症状が違うのだと思う」と答えた。何故なら、彼は確かに苦しそうなのだ。なのにそれは、想像とは違うものだと感じた。
それに、ぼくは、彼の内部で起こっていることを体感しようもない。

医師が判断した病名は同じものだ、それは、おそらく、知識からくる客観性によるものだが、その実態としては、うつ病というものを知っている人はいないという事になるのだろうか?

2021年06月15日

ぼくというものの領域

言葉というものは、区分とか分別の類いだろう。便利だし、日本人のぼくは日本語で物事を分別しているのかもしれない。
しかし、実態は、そんな簡単なものではなさそうだ。
ここに書いている文章というものは、一部は言葉で考えているのかもしれないが、おそらくそれがすべてではない。ただそれは認識が難しいのか、それとも出来ないのか?

少しばかり、感情移入出来るものとして、この食事を上げてみる。
少々感傷的になっていたこともあり、この動物の死骸の事を想像していた。要は、その想像を観賞して自己に重ねて同一化し
て悲しむという事をしていたわけだ。

ここから、どう文章を書こうかと考えてみる。

この何百か何千か分からないシラスの物語だ。
海の中で、泳いでいると、上から網のようなものが現れ、海から引き離され窒息死をしたのだ。さぞ苦しかっただろう。こんな、しょうもない、ぼくなんかを半日生かすために、こんなに沢山。ぼくは、数知れぬ苦しみの上に生きているんだな。。

ところで、彼らは「苦しい!」と思ったのだろうか?たぶん、思っていない。その「苦しい」は、人間の区分でしかないのだ。それ以前に、そのような言語で考えないだろうし、その知覚の世界の捉え方は想像しようもない。ぼくたちは、人間との類似性を考えて、言葉で区分して想像いるだけのことだ。
ただ、そこには重要な点があって、ぼくたちも、その言葉以外の捉え方は可能なのではないか?ということ。
というか、捉えているっぽいのだが、それを言葉にすることは難しい、というか、厳密には不可能だ。
人間は言葉で知覚を翻訳出来ない。言葉は不完全だ。多くの試みは存在しただろうけど、どうしてそう感じるのか?なんて分からない。

こういう事を考えると、左脳付近が痛くなる。たぶん、必死に言葉で答えを探しているのだ。もしくは言葉を組み合わせて、それを証明するのか?

まぁ良い、このシラスから、ぼくというものの領域について考えてみる。
これは、というか、これらはぼくだろうか?果たして、どこからどこまでがぼくなのだろう?
言葉の区分では、おそらくは、「それはシラスだ、あなたではない」ということで、「だからあなたには何の影響も関係もない」ということになるかもしれないが、これを書いている現時点では、シラスはぼくに取り込まれ、おそらくぼくの中のいたるところの要素なっているはずだ。それどころか、ぼくは言葉の区分としては、別の生命体と言われるものを取り込んで、変換しまくった集合体なのだ。そうなると、「ぼく」そのものが危うくなる。
そもそも、ぼくはどこまでぼくなんだろう?母親の半分はぼくだろうか?遺伝子という言葉の区分で言えば、酷似しているはずだ。そういう感じでたどっていけば、遺伝子区分であればほとんどの生き物は、ぼくを含むのではないか?
この文章そのものもおかしい、シラスに関しては見ているのは写真であり、取り込んだものはモニター光だ。

こんな問答に意味はないだろうか?
たぶんぼくは、言葉に洗脳されて多くの発見を見逃している。ただ、こうして言葉で書くことで、ああ、そうだったと思える。

この問答を言葉で繋げてみれば、最終的には、この世界はぼくの要素を含むことになる。じゃあ、世界イコールぼくなんだろうか?そうなると写真のシラスもぼく??いや?

ぼくは、知覚と言葉で、ぼくというものを認識しているのか?そのぼくというものを確認する術はない。
ただ、一つ分かっていることは、言葉で解釈出来ない、何らかの知覚のようなものがあるのは、絵を描くことで、ある程度確認できる。それは、もう少し広い領域を、より複雑に捉えていることは間違いない。視覚は、シラスを見ているが、そこだけを見ているわけではない。食器や米や、その周辺も見ている、そして、それを口に運ぶまでの処理の手伝いをする。
言葉とは違い、それを一瞬で処理している。

視覚は凄いことをやってのけた。その意味を、言葉でどこまで解釈出来るのか?

と、色々と考えてみた。
とりあえず、意味というものは人間という種族が言葉という言葉を成立させた場合にだけ生じるらしい。あと、自己洗脳による人間だけの集団幻想的世界を作っていることは容易に想像できる。
実のところそれすらも危ういものだが。

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文化や言語体型の違いだけでも実際の意味のニュアンスは異なるだろうし、個人一人一人とっても、知覚する世界の感覚は違うだろう。例えば赤や青という色を、ぼくとまったく同じに捉えている人はいないだろう。他人の体に入れるとしたならば、あれ?と思うはずだ。あと網膜面積や両眼の離れ方だけでも、立体視そのものに違いが生じる。そういうものを何とか言葉に擦り合わせているだけなはずだ。
「はずだ」では困る!
では、よく言われるティラノサウルスの両眼視の事を書いてみる。テイラノサウルスは、他の肉食恐竜に対して、目が離れている上に前を向いていた。故に、ティラノサウルスは両眼による立体視が出来たという科学的見解、これは納得出来ないだろうか?
さらに彼らと同じ双弓類である鳥類の色覚について述べると、彼らはRGBの他に、紫外線を視覚化出来るとされている。RGBの三色で知覚している人間には、その知覚世界を想像しようもない。要素が無いものを体感することは出来ないからだ。その受容体があるわけだが、では、その受容体の強弱についてはどうだろう?痛覚ならば分かりやすいかもしれないが、これは個人差があることは知られているし、そういう神経組織の密集度を考えても違いがあることは容易に想像できる。例えば、子供の頃のほうが転ぶと痛いという感覚はなかっただろうか?実際の転倒の衝撃は、身長も高く、体重も重い、更に体が硬くなっている今のほうが大きい。
ここまでは言葉で説明したが、ぼくは言葉ではここから更に深い部分は必ず行き詰まる。
何故なら、単純に色だ、色を何故そのように感じる事が出来るのか?知覚にとっての色とは何だ?色すらも生物間では大きく異なる。確かではない。何故、そのように感じることが可能なのか?その事を言葉で説明出来る人はいるのだろうか?
それに、個と言われる区分で言えば、それらの体感する知覚は、すべて異なる事になる。その点に関する無知が、社会という言葉の区分の中での現代的価値観における諸問題になっている事も多々あるだろう。
にも関わらず、ぼくたちは、恐ろしくこの世界を簡略化している。

物事を、もっと広く捉えようとするならば、ほかの感覚が必要なのだろう。
その感覚で他者がぼくを捉えるならば、ぼくは少なくとも自閉症ではなくなる。もう少し複雑なものとして、ダイレクトに捉えられるだろう。そういう言葉の分別がなくなるわけで。

虚ろなる強さ


神は存在せず、真理も存在しない時代に生まれた。
生きる理由は無いが、死んでは駄目だとは言われている。生きる理由は無いが、その理由を作れという空気が漂っている。
ぼくが考える事も、作るものも、意味はないと確定しているのが現代という時代かもしれない。
問答をしてみると良いが、あなたの好きな事も物も、突き詰めていけば意味はない事が分かってくる。

美に神は宿らず、真理もまた存在しない。雄弁に語られる多くの事は、とっくの昔に詭弁と化していて、どこかで思考停止しないと、真顔で聞いていられない酷いものだ。ただ、滑稽で退屈なのだ。

そんな世界で生きる価値を欲した結果、力という一つの結論めいたものに着眼してきた。
力というものは、便利なもので、鍛えると大きくなるという性質を持っている。子供の頃から分かっている、とても単純な理屈だ。

作品一つについて考えてみる。ぼくは、何度か、他者のそれを見て追い詰められた事がある。もちろん同じ土俵だからであって、そうでなければ、傍観者としてやり過ごす事が可能だ。
それに、神が宿っているわけでもなければ、心理を突き詰めているわけでもない。理由はないが理由はある。動物の本能として敗北を恐れた。ぼく自身のアイデンティティーに関わる大きな問題が立ちふさがる。
それは強い。
彼らの強さは何なのか?それは色々な要因があるかもしれない。生い立ちも違い体も違い住んでいる場所も経験も感覚も違うのだ。それが、突然目の前に現れる。

弱者となったぼくからは、自信というものが奪われる。それを回復するには、時間と再び始まる思考が必要だ。
自分に言い聞かせる。
「世界一になりたい」
そうやって生きる望みを繋いできた。
この際、日本の一地方なんて関係ないだろう。どこに行っても、この国なんか田舎なんだから。人口の多い田舎。
ぼくの敵は、身近にはおらず、想像上の得体の知れない何かだった。それは、抗うことの出来ない巨大な力をもっていたが、それでも乗り越えなければならない敵だった。そう、仮想の敵だった。

生きている間に、疲弊して何度も倒れる。回復したときには、何かの理解が少し深まっている。それは真理では無いにせよ、以前より固くて強くなっている。そうだ、強度だ。
それは、以前から見えていたが、なす術のないものだった。あまりにもぼくは弱かった。

ただ段階というものがある、倒れて体力を失ったぼくは、より強度というものを理解している。強度には、努力が必要だ。しかし、知的なものならば、これまでの努力もある程度加算されるものだ。これを駆使して、誰か話の通じる人に見てもらえば、なんらかのコミュニケーションが成立するかもしれない。そうであれば、ぼくの存在価値は、少しだけ後押しされる。
それが見えない相手に関しては、コミュニケーションそのものに意味がない。ただの雑音にすぎず、堕落に導く発言でしかなく、最終的に生きる意味を考える努力まで失う事になる。宗教的に言えば、魔のようなものだ。過去に、そこにいたとしても、ぼくはまだ振り返るべきではない。時間に限りだってあるし、生きるためにも、本当は振り返るべきではない。
ぼくが作った何か?が、見える相手を探す事も必要だ。それは、自分をより高める相手が好ましい。敵でも味方でも良い。

ぼくには、深いコンプレックスがあった。学校の成績は、常に最下位レベルで話にならず、何故そうなっているのかすら分からなかった。
そんなこと、考えずに生きることが良いことなのか?
考えるか考えないか?という道があるが、考える道を選んでみよう。とりあえず生きるというのは退屈すぎるし、ぼくの脳は、目まぐるしく動いている。
これは、今なら分かる。確かめようもないが、健常者には分からない。脳に負荷をかけなければ、ムズムズが走り、自傷行為という刺激がなければ堪えられなくなる。向精神薬における中毒症状である、アカシジアに近い感覚だ。ガクガクと痙攣を起こし、陰嚢は極度に収縮し、脳はパニックを起こし、生物としては何か生き残ろうという本能が働く。射精直前のような感覚でもあるが、快感等なく、寸止めのような状態が続く。体が勝手に死を悟っているのか?とすら思える。しかし死なないわけで、寸止め状態が続く。自殺を考えるのに十分な苦しみを味わう。もしくは、発狂するのか?発狂すら耐えられないかもしれない。子供の頃は、脳の中で何かが出てくることで、メーターの針が激しく上下するような状態に対して、ただただ恐怖だったが、混乱したぼくは、大人に殴られる対象になった。それは、じっとしていなければならない時間だったからだが。
生きるためには、考えて負荷をかけておく事が必要だった。それに、何らかの形で、自分を癒す必要があった。

その苦しみを越えたとしても、たどり着けない強度というものがある。そんな事は最初から分かっている。強度だって絶対的なものではなく、相対的なものだし、類似の者がいたとしても、ぼくより強いなんて当たり前のようにある。それに、上限というものも存在するだろう。

ただ、その道は、ぼくを弱らせるようでいて、生きる原動力になっている事は間違いないだろう。
だれしもが、何かを選んで生きている。生きる理由は色々とある。

「真理は無いけど、それでも真理を探しているんだよ。」

「私には無理だったけど、それは子供に委ねるよ。」

「強くなりたいんだ。それが永遠に続くこともなければ一瞬のものだとしても」

「美しくなりたい。絶対的なものではないし、つかの間のものだとしても」

「金が欲しい。あの世に持っていけないし、一生かかっても使えないけどね。」

「世界一になりたい。何をもって世界一なのか分からないし、そんなのほとんど無理だけどね。」

生きる理由は様々だ。
その徒労のような努力の過程で、結果としては、何かを生み出すかもしれない。ぼくは、その生み出したものを作品と呼んでいる。

単純に、「痛い事や苦しいことを後回しにしたいから、意味はないけど、とりあえず生きてるんだよ。」

そういう考え方だってあるし、それも間違いとは言えない。






2021年06月14日

同調圧力と行動


この国において、同調圧力というのは、重要な位置を占める文化だ。一見、モラルがあり、正しい判断の下、人々が動いているように見えるというのも、実のところ、同調圧力を無意識に常に感じていて、それに従っての行動である事も多いだろう。

ぼくは、同調圧力というものを感じるとき、自我の崩壊を避けるため、そこから逃げるといことは多い。それに染まったとき、ぼく自身の独自性をうしなう事を恐れているし、仮にぼくに高度な感覚がある部分が存在したとしても、それは封印される事になるだろう。もしくは、おちゃらけてごまかすしかない。バカなフリが必要だ。
基本的には、この現象からか、日本においては、二次創作こそがメインカルチャーになっている。前例主義に支配され、新しい何かを作り出す事に関しては非常に苦手な状態だ。


同調圧力というのは、イデオロギーのようなものも形成するが、それはあくまでも平均値というものが重要になる。
仮にぼくに高度な感覚があったとしても、それを打ち消そうという力が働く。
おそらく、多くの人に、何らかの高度な感覚があるとしても、同調圧力の前には、無意味になることが多い。それは、多数決をもって、それは間違いである!という意見のもと、間違いだと受け入れざるを得ないからだ。それを受け入れられないならば、彼、或いは彼女からは、村の印のようなものは消え、村から排除されなければならないだろう。もしくは遺恨を残し、ごまかしながら村に残るのか?より低い存在として。
村には、やって良い事と悪いことというものが明確に存在する。やって良いこと、それは以前から村の中では周知である事象を用いて行う必要がある。それを逸脱した行動はNGである。たとえ、それが、村にとっての発展を促すものであってもだ。
高度な感覚や意義ある発見のようなものがあるにせよ、それはほとんどの場合、平均化された人々の集団では認識出来ない。
こちらから集団の感覚が見えたとしても、逆はない。
仮に、その集団のなかに、その感覚のようなものを理解出来た人がいるとしても、自己保身のために多勢のほうに付く可能性は、極めてたかい。
もはや、完全な文化として根付いている。


そういう場合は、逃げるという方法もある。ただ、それも自分の意思のようでいて、この社会の中では、同調圧力に支配された行動ととる事も出来る。
その逃げるという行動に至るエネルギーの源は、同調圧力そのものだからだ。ただ、それでも、自我というものを守るという意味では、逃げたほうが良いこともある。
作家であるならば、二次創作を避けるという意味では、今の所良い選択肢の部類に入るのかもしれない。
もっと良い方法があるのなら良いが。

2021年06月13日

何故勝たないといけないのか?



一週間が経過したのかな?いや、8日だろうか?ただ寝てばかりいるせいか、時間は短い。
とりあえずは生きている。

生きているということは、また生存競争とやらに参加しなければいけない事を意味している。その事を意識する事は、非常に億劫だ。他者を押し退けて生存アピールとか馬鹿げている。
要は、その事を意識しなければ良いのかもしれない。純粋に自分が好きならば、それも可能だろう。そして、自分がやっている事が好きならば。

ぼくは、根本的に、自分がやっていることも好きではない。別に写真は好きではないが、生存の手段としてやってみたというだけの事だ。
つまるところ、それは自己表現だ。自分が好きではないのに、それを肯定出来るだろうか?素晴らしいと嘘をついても、それはすぐにボロが出るだろう。社交辞令としても、酷い事を言うことになる。自己嫌悪は増すばかりだ。

おそらく人は、ある領域に自分を押し込めて生きている。好きではなくても、好きということにして納得している。おそらくは、好きな事というのはもう少し単純なものだ。難しいものではなない。
何かの発展のために、新たに蓄積されたものというのは、酷く面倒で、おそらくは多くの人にとって意味はない。というか、分からない。根本的に面白くはないが、それ以外の自分の感心や好きなことと関連づけて、好きだと錯覚する。その錯覚も、一つの原動力だ。だが、それは、ぼくにはない。

勝て勝てと言われてきた。
勝つって何なんだろう?どうしても勝たないといけないのか?生きることは、食うことで、食われない事だからか?食われたとしても、自分の遺伝子が生き残れば、生物的には勝っているから?そうやって、何十億年も生命を繋いできた結果、ぼくは生きているからか?
まぁいい、その点は放棄している。ぼくには子供はいない。この体で終わりだから、どちらにせよ生物的にもリタイアだね。

たぶん、この世界に、意思なんか無いんだ。生物としての成功?本当は勝ちも負けもない。それは、痛みや苦しみを避けるための方便だ。意味も意思も無いけど、このパターンが存在してるんだよ。勝ってるんじゃなくて、この世界に現時点で残るパターンなんだよ。たぶん

とりあえず、空腹とか軽蔑とか、そういう苦しみから逃げる準備として、これからも何か考えるんだろな。ぼくは