2021年06月19日

老人の苦悩

入院患者の老人患者が、夜中に大声をあげていた。就寝時間であることもあるし、看護師もなだめていたが、呼吸用の酸素も外していた。
ぼくは、近くにいたが、気にもとめないフリをしながら、近くのソファーで読書をしていた。素人だし、余計におかしな状態になるかもしれないからだ。本のタイトルは「人はなぜ憎しみあうのか」蟻の研究者による群の行動学の本だ。

老人は、次のように言う。
「ここを出る!ここはダメじゃ!」
看護師の、制止を振り切って外に出てくる。
「廊下に出る!廊下に連れていけ!」
看護師は
「ここが廊下じゃがな、ここは違うん?ソファーがあるから座ってみて。」
老人
「ここじゃのうて、廊下に行くんじゃ!」
どうやら、他の場所を思い浮かべているようだが、他者が知るよしもない。
「部屋に戻ろう?酸素無いと苦しいじゃろう」
「いらん、あそこは駄目じゃ!」
「三分ここに座っといて、待てる?」
「わからん..」
看護師はいなくなった。
「もうええんじゃ..」
老人は、待てという言葉に対して、分からんと解答していたが、そのまま大人しく座って、うつむき頭をゆっくりふっていた。
看護師が薬を持って帰ってくる。
「これ飲んだら落ち着くから」
「いらん!」「苦しい、なんで、わしだけがこんなめに。。」「寂しい。。」
「ここに来た人たちは、皆そうなんよ」
「死にたい。。」
その後、男性の看護師も来て、老人は、部屋に戻された。
「なんで、お前らは、わしをいじめるんじゃ!」
と悲鳴のような声をあげる。
しかし、数分のやりとりの後、静かになった。
客観的事実としては、ここには書ききれないが、看護師たちの対応は丁寧だった。

そう、確かに、老人は、わしだけこんなめに合っているのだ、皆も何かを抱えているが、それを知る者は本人しかいない。
ただ、皆そうなんよ!という言葉に関しては、一部はそうだ。皆寂しいのだ。看護師も含めて。ぼくらは、他者の感覚を知らない事を、内心知っている。同様に他者も、自分の感覚を知らないということを知っているのだ。感覚は群れや社会の中でも孤立している島のようなものだ。
ただ、大いにある勘違いはあるかもしれない。これは、言葉の罠によって起こっているのかもしれない。言葉という同じツールを使うことで、「苦しいのは皆同じ」という簡略化もしているし。「私」を認識しているのは、言葉でしかないという錯覚からも起こりうる。そして、言葉は共通のツールだ。
言葉は、言葉では確認しようもない「他者」を知っているという勘違いを起こす。「私は皆の事を知っているのに、皆は私の事を知らない」という錯覚。
より孤独が強まるという苦悩の話しだ。

平穏な状態の人たちはの感覚は、より近いであろう事は、言葉でも想像できる。そして、その平穏さは、印のような形で認識される。しかし、明らかに違う感覚に陥ればどうなる。私には、平穏さも無く、年老いて多くの感覚は弱り、一部は無くなってしまった。昔は持っていた印は無く、自分と同じ印を持つ人はいない、もしくは少ない。マイノリティー的な感覚を彼が襲う。
そして、他者は、憎まれたのだ。

双極性障害 うつ


うつ状態に入ったようです。思考回路が回りません。
頓服もらいました。
しんどいので、ネット見れません。
考えれる状態になったら、記憶があるうちに続きを書きます。

2021年06月17日

直観で作品を作り、その意味を考えて、人に伝える

前の日記で、ある種の閃きのような事を書いたが、これは、脳科学的には、何かと何かの知覚的情報がニューロンや、分泌物で繋がって、何らかの解答を得たという事になるのかもしれない。

それは、何かを考える参考にはなる。ただ、それで核心めいた事に、言語的に気がつくわけでもない。何度も言うようだが、それは気がつかないというよりは気がついているが、言葉では解釈不能だということだ。

ただ、感じたものを他者に伝えるすべは無いことも、ここ最近の日記で述べている。
では、作品というものを、どう説明すれば良いのか?に関して言えば、不可能な試みをしなければならないのかもしれない。そうでなければ他者は共感を得る事が出来ない。だから、ぼくが書く文章というのは、核心について書いているわけではなく、何とか、そこに気がついてもらおうという試みにすぎない事になる。つまるところ、「嘘」である。
とりあえず、知覚を優先した考えということで、知覚優先主義とでも言っておこうか。。

ある日、ぼくの身に変化が起こる、突然、鳥類の視知覚を得たとする。その時点から、ぼくの体は、紫外線を可視化することに成功した。なんと紫外線の色が見えるのである。
高名な視覚学者でも解剖学者でも良い。その学者が調べて見ると、確かに目には、紫外線の受光体があり、紫外線で書かれた絵をぼくに見せると、脳が反応している事が分かる。
学者は言う 「紫外線は、どんな色をしていますか?」
ぼくは困る、今まで見えなかったものが沢山見える。例えば鳥類だ。かれらの体のカラフルな模様は、以前よりカラフルになっている。それどころか、雌雄同色だと思っていた鳥には、雌雄で色が異なる種まである。
この事実をどう伝えれば良いのか?雌雄で色が違うよ!とは説明出来る。しかしどんな色なのかは答える事が出来ない。当たり前だ、皆、知覚としての紫外線の色を知らないのだ。
ぼくは、ペットのインコに「でも見えるんだから仕方ないよね?」と共感を求める。

この話は、嘘っぱちだが、他者の感覚を知り得ないという意味では有効だ。
人間同士であれば、そこまでの違いは無いだろという前提で、ぼくたちは物事を他者に伝達する手段として言葉を使うが、だがしかし。。
少しそれるが、ぼくは単純な意思の伝達手段として、インコにも言葉で物事を伝えている。面白い事だが、別種のインコ同士が、人間の言葉で遊んでいる様子を確認してしまった。
片方が「いないいなーい」というと、もう一羽が「ばっ!」という遊びだ。片方は、いないいないパートでは、うつむいて顔を隠して、ばっ!パートでは、顔を上げるあたり、本当に言葉の区分を理解しているのかもしれない。
人間のみと思われていた、変な文化を教えてしまって申し訳ない。しかし、動物における言語というものを考えるのは面白そうだ、彼らが、物体を言語以前からある領域で区分している可能性は非常に高い。思考の中に、何タイプかの相容れない感覚がある事は間違いない。また考えてみようかどうしようか。
そういう動物が、言語に閉じ籠った人間の精神を解放し、自然界に対する、より深い共感への橋渡しをする可能性だってある。
自我とは何なんだろう?

体験して物を知るというのは、おそらくは日本人にとっては、当たり前のような感覚があるだろう。何故なら、そういう文化があるからだ。なので、例えばなしという「嘘」も、話の中に多く盛り込まれる。それによって「ああ!そうだね!」と気がつく人もいるだろう。別解釈をする人もいるかしれないが、その別解釈についても何らかの閃きに至るヒントになるかもしれない。限りはあるが、脳のニューロンを他者と接続出来ないかぎり、そういう方法論も必要になる。
というか、今ここに書いているのが、その練習だ。言語発達の遅れが大きくあるぼくが、それを試みている。勿論、ぼくは、これを紙に書くことは出来ない。PCやスマホの補助があるから出来る。字は、あまり書けないのだ。

西洋の場合は、文化が大きく異なるだろう。現在の知覚世界を知るならば、その原典からたどらないと分からないというか、学問の体型としての理解を得るのは困難だ。
しかし、なんと未だに、赤と、青と、黄色という知覚を説明出来ない。ある一方で、別の感覚(知覚)は、その色を「知っている」にも関わらずだ。

さて、ここで、ぼくたちは、日本におけるものの見方があるという事に気がつかないだろうか?いわゆる、論より証拠というやつだが、作品の出力方式としては、直観によって得た「証拠」を提示して、その後、文化の違う他者たちに極力分かりやすく説明する。という方法が、ぼくたちの文化としては正当と考える事が出来ないだろうか?
勿論、ある程度の確信もなく、ハッタリをかますだけでは、強度は得られないだろうが。。

知識、もしくは体験の消化期間


この歳になると、本を読んでも、未知の領域は少なくなっている。ある出来事とか、思想というもの、特に過去のものは、既に社会に溢れていたりして、読んでもいくらかの補完で済んでしまう事がある。
当然といえば当然だが、本などは、興味のあるものを買うわけで、その興味のあることは、既に何らかの形で情報を得ている可能性が高い。おそらくは、道を歩いたりしていても、知らず知らずのうちに物事に注目していて、知覚的に情報収集している可能性は高い。

それと関係あるのか無いのか、ほとんど絵を描いていない今のほうが、描いていた時期よりも上手かったりする。
たぶんだが、ぼくのものの見方は、見ることそのもの、知覚を意識したものであって、何かの物体を意識したものでは無いからかもしれない。実際、絵画教室でも、ひたすら物体に対する執着を捨てる事を教えている。言葉の枠組みを解除せよという事をひたすら言っているということなる。だから、描くのは、この付近を描いてくれという事になる。
面白い事だが、これは、ある日突然気がついて実践したものの見方ではあったが、言語に頼らない知覚を呼び覚ますのに非常に有効な方法だった。その時点から、突然描けるようになったのだ。人間は、そもそも、数億年かけて知覚を進化させながら受け継いできたわけで、そもそも描ける(見れる)。つまるところ再現性のスキルを持っていたという事になる。言語という仕切りがずっと邪魔をしていたわけだ。どのように邪魔をしていたか?は明確だ。単に複雑なもの「知覚」が得る情報を、言葉が区分して簡略化していたのだ。そもそも、知覚が、一生のうちで同じ経験をする事は無いのだから、簡略化された過去に学習した記憶を引き出すのではなく、今ある瞬間を見たほうが、よほどに複雑で豊かな情報が得られる。この考えに至ったのは、ぼくの学習障害の特性が後押ししたかもしれない。パターンを記憶して、それを引き出す能力が、著しく劣っていたから、新たな方法か、もしくは思想そのものの原典を入れ換える必要があった。その知覚における体験と知識の消化期間を経て、勝手に上手くなっていたのかしれない。
こういう閃きみたいなものを持ってして、昔のインドとかの人たちは「悟りを開いた」とか言っていたのかもしれない。
しかし、出来てしまえば、それは当たり前の、何でもない事だったりもする。

おそらくは、物事の考え方は、このあたりと西洋世界では大きく異なる。原典が違うとでも言おうか。
ぼくらは、新たに発見して物事を積み上げて考える事が苦手だ。既に積み上げられた知識をああでもないこうでもないと解釈して細かくする事は得意かもしれない。
考えてみれば分かるが、師弟関係だ。東洋では、師は正しいものだと、自然に思っていることが多いだろう。師と言われれば、仙人のようで、届かないもの、より近づくべき尊いものとして、対立意見というものが起こりにくい、というかそういう対象ではない。だから、弟子(後継者)たちは、それが正しいものだとして、解釈を細分化させる。
西洋の場合、根本的に異なるのは、師に対しても、容赦なく対立意見を述べる事だ。新たな考えは、以前の偉人の考えの否定から生まれてくる。そういう歴史歴事実があったとして、そこに疑問を投げかけるわけだ。当然新しい価値観を作り出す事は得意なはずだ。

この両者のどちらが優れているというわけではない。単純に、原典が違い、それぞれが時間を経て進化しただけの事だ。違いを述べる事は、若い頃は出来なかったが、時を経て、消化したことにより、このように述べる事が出来る。
例えば車だ。
若い頃の、素朴な疑問だったが、イギリスの車と日本の車だ。
「イギリス人は、凄い発明をするのに、何故、特に新しいアイデアもない日本車のほうが、複雑かつ壊れないのだろう?」
大まかだが、両者の文化の違いが、先に述べた文と同じように現われているのではないか?と今は思う。過去は、「イギリス人は、凄い発明をするのに、何故か、特に新しいアイデアもない日本車のほうが、複雑かつ壊れない」という事実を、知識として知っていただけだが、その時より、少し理解が深くなったのは、時とともに経験を経て知識を消化したからだろう。

ただ、世の中は、グローバル化してしまった。得意不得意があったとして、両者は融合される事になる。
過去の細分化も過去の否定も含め、全体を見渡すならば、より複雑に物事を捉えなければならない時代になった。
そして、人が一生の中で出来る事は、ごくわずかだ。
さて、どうする?どちらにせよ、道は、過去に誰かが通った道だ。そうでない場所には、どちらにせよ道は無い。そちらに行きたいならば、草を分けるしかない。
それが、ぼくの作品に対する、現在の理解。

現在の状況


先日は、夜寝る前に、一度の幻聴と、寝たあとの幻聴で目が覚めるという現象があった。あと治まっていたと思っていた左足痛が復活。実は入院前からのものだが、これは病気と見て良いかもしれない。

毎日、頭の中で考えている。理由は暇だからだ。自分に起こったことや、今の自分に起こっていることを、静かに感じとる事が出来る。
外の世界は忙しいので、こうして考える時間は無い、直感的に、素早く行動することが求められるが、ここではそういう事をする事が出来ない。
思索は、かなり深い所まで出来るようだ。例えば○○と着眼すれば一日中文章を書くことだって可能だ。

他の患者と話すという道もあるが、むしろ内に籠るという機会のほうが少ない。ある程度人と話すと分かるが、この院内の社会も、外の世界とよく似た構成だ。途中からは同じような話が展開する。
あと、テレビ。これは静寂よりも退屈だ。数分見ていられない。何の投げかけも無く、まったく考えることが出来ない。

そもそも内に籠り内部を感じ、考えるというやり方は、東洋としては正当な思索方法だろう。もともと内向的なのだ。そういう文化が知らないうちに自分を動かしているのだろう。俗っぽく言えば、修行のようなものだ。

新しい発見が無いときは人間はどのように動くのか?閉じ込められて分かる事だってある。