三年前、ぼくは、先日退院した精神病院に入院していた。もはや、外での仕事は困難な状態になっていた。
その中での話だが、同じ病棟の他の患者から勧められたのが、継続就労支援A型、つまり、A型労働はどうだ?という話だった。
就労継続支援A型とは、障害や難病のある人が、一定の支援がある職場で働くことができる福祉的な支援契約だ。
ぼくは、退院する気満々というか、とにかく、現状から逃げ出したかったので、病院には噓の報告、つまり、もう良くなりましたという報告を続けていた。事実は、全然良くなっていなかったのだが、限界的に耐えられない状況を脱していたため、そうしていた。
ぼくは、退院する気満々というか、とにかく、現状から逃げ出したかったので、病院には噓の報告、つまり、もう良くなりましたという報告を続けていた。事実は、全然良くなっていなかったのだが、限界的に耐えられない状況を脱していたため、そうしていた。
ぼくの頭の中には、A型労働というものは無かった。話は聞いたが、知識のうちに留めておくだけにして、早く退院するために、自分でトレーニングをしていた。ぼくは、A型労働者を馬鹿にしてはいないつもりだったが、どうだろう?今を思えば、無駄なプライドが、それを許さなかったのかもしれない。
ぼくは、不可能になった、これまでの仕事の代わりになるものを模索する必要があった。
ぼくは、不可能になった、これまでの仕事の代わりになるものを模索する必要があった。
「時間稼ぎが必要だ」ぼくは、そう思った。これまで稼いだお金と、パートナーの支援で、一年を乗り切り制作する。今回のは、賞金が必要だ。ぼくは、福武文化奨励賞等を受賞していた事もあり、徐々に貯金を増やしていた。
「とりあえず、雑念を取り払え、情報を見るな、勝つことだけを考えろ、今出来る事でそれは可能だ!」自分にこう言い聞かせて、自分の中の戒律である、”写真”を解放することにした。破戒だ。ぼくは、写真では作品を作らないと決めていたのだ。それを決めたのは、20代のころだ。
そもそもは、当時、写真は、視知覚的な見方の完成形ではないし、それによって多くの人が、ものの見え方の豊かさを勘違いしている。知覚とは・・というのが当時の考え方でもあったし、それは基本的には今もそうだ。今はもう、多くを忘れているが、実は、対立する「他者」として、写真というものをそれなりに研究していた。その時のニュアンス的なものは、今もなお残っていると思う。ただ、当時は今よりも、ずっと西洋かぶれで、それこそ大二病のようなものを患っていたかもしれない。
予備知識を見るな、雑念が入る、傾向と対策など、本来作品に不要なものだ。頭の中で、長年育ててきた、”抗うことが出来ない巨大な力”こそが、ぼくの乗り越えるべき敵であり、相手は人間ではない。バケモノだ。
ぼくは、うつの波が、比較的低い間のみ制作することにした。写真を撮影しては、ばったり倒れて、月単位で動けない日々が続いた。
そして一年後、おそらくは十分な強度、相手が人間であるならば勝てる強度をもった作品群をまとめ、それに「蟻のような」という名前をつけた。
ここからは、作品を出す展覧会を探す作業だが、まずはビジュアルからだ。"写真 公募"と打ち込んで検索。多くは、綺麗な風景や、可愛いペットの写真が出てきたが、それとは違うものがあった。
パートナーに見せて、「これ、通りそうじゃね?」と話した。
パートナーに見せて、「これ、通りそうじゃね?」と話した。
”キヤノン写真新世紀”と書いてある。
「写真というよりは、なんか妙にアートっぽいね」と思った。
まぁ何でもよい、国内では、これ一択だろう。外国人審査員も多い。ぼくにとって、外国人審査員というのは重要だ。というのも、日本の文化人は、西洋かぶれが多く、その文化そのもので育っていない人が、言葉だけを使って正解を探るケースが多い。そして本質は理解していないにも関わらず、何故か理解していると思っている人が多い。ぼくの場合は、もちろん西洋のそれを経験として理解していないが、少し違って、東洋の島国の中で、マイノリティーとして育った自分が感じる世界を、他の価値観、文化として認めろという要求も含まれたものだった。要は、西洋の哲学における「他者」に、東洋の島国人であり、その文化の中で育った、”ぼく”がなりきる事で、その対話は成立するという考えからのものだ。
エントリー要綱の形式は、映画祭のそれと非常によく似ていた。ただ、”ステートメント”って何だろう?という疑問もあった。消去法で、おそらくは映画祭エントリー要綱の”シノプシス”(あらすじ)に近いものだろうと解釈して、そのうような感じで書いた。
結果は、グランプリだったので、ぼくの時間稼ぎは、ひとまずは成功した。要は、ぼく自身の作家としての延命措置は成功したのだ。
死から逃れようとする執念って凄いものだな・・こりゃ難儀なものだ。と思った。もう一つ、ただただ落ちぶれるのが嫌というのもあった。
しかし、”落ちぶれる”って何だ?という疑問が残る。何をもって落ちぶれるのか?
ぼくは、三年前ではなく今回の入院での、ある人との話が、頭の中に強く残っている。それは、とてもつまらない話だったが、そのつまらなさの本質は、ぼく自身と被るものだ。
簡単に書くと、
”私には、かつて妻子がいた。私は、とにかく社会の規範を守る男でね、それにそぐわぬ事を妻子がすれば、とにかく叱ったものだ。だってそうでしょう?人がどう見てるか分からないじゃないですか?みっともない事はやめろ!と言っていたんだよ。
私は、少しばかり無理もして、大きな家を建てた。妻子は、何不自由しなかったし、変な目で見られる事もなかったはずだ。なのに、妻子は逃げた。そして、電話番号も変えられ、もはやコンタクトもとれない。そうこうしている間に、私はアル中になって、病気になって、還暦にもなっていないのに、年金生活を送っている。みっともないでしょう?だから、何度も自殺を試みているんですよ。”
私は、少しばかり無理もして、大きな家を建てた。妻子は、何不自由しなかったし、変な目で見られる事もなかったはずだ。なのに、妻子は逃げた。そして、電話番号も変えられ、もはやコンタクトもとれない。そうこうしている間に、私はアル中になって、病気になって、還暦にもなっていないのに、年金生活を送っている。みっともないでしょう?だから、何度も自殺を試みているんですよ。”
彼は、大きな家に関しては、少し誇らしげに語る。
その後、
その後、
”私には、大きな家だけが残った”
と語った。
ぼくは、自分が実践していないにも関わらず、
「そういう境遇にある様々な人たちを、少しばかり優しいまなざしで見るだけでも救われるんじゃないですか?だって、過去の自分が言っていて、それを今も言って、自分が苦しんでいるのだとしたら・・それに、年金生活かどうかなんて、かなりどうでも良くないですか?遅かれ早かれ皆そうなるんだし、皆違って当たり前じゃないですか」
と偉そうに言ってしまった。心の中の何かが、頭をよぎって、少々苛立ってしまった事もある。それに、客観的に見れば、彼自身が変わるか変われないか?の岐路でありチャンスだという事が分かっているのに、自分に対しては、そのように見れないという苛立ち・・
実際のところ、言葉の罠にはまってしまった彼の苦悩は計り知れないのかもしれない。マジョリティー的意識によって支えられてきたアイデンティティーが、マイノリティー化して崩れてしまったがための苦悩。
たぶん、ぼくがこれまで求めていたものは、その”大きな家”と本質的には同じものだ。それで、ぼくは救われるに違いないと信じて動いてきた。しかし何だろう?ぼくは、人がどう見るのか?に固執している。
言葉では表しきれないが、ぼくの中に決定的に足りないものの片鱗が見える気がした。それは、ぼくが、言葉ではない何かで考えてきた表現とは、決定的に異なる。にもかかわらず、おかしな”モノ”に固執している。ぼくは、「立派な作家になって、昔ぼくを馬鹿にした”皆”を見返したい」と、かつて若いころに言った。ぼくは、その言葉に捉われていたが、実のところ、本質的には、まったく尊くもないし、立派でもない。そして、虚しさに苦しんでいる。そもそも、その”皆”とは何なのか?マジョリティー的な何かなのか?妖怪人間ベムとかで言うところの、「早く人間になりた〜い!」という台詞の対象であるあれか?
「よく考えたら、A型労働で良かったんじゃないか?」
というか、何故、それを嫌がったのだろう?A型労働で働くぼくが、一方では作家として活動するでも良かったし、それでいっぱいいっぱいだったのならば、労働だけでも良い。出来るときに何かをすれば良いのだ。
A型労働をする自分と作家をする自分というものは、同時に成立する。そして、それは恥でも何でもない、どこかで恥と思っていた、自分自身が恥ずかしいのであり、それだけに、ぼくには、「私」も「他者」も救えないし、その力も無かった。ぼくには、決定的に欠けているものがあった。賞とか名誉では、そもそも立派になどなれないのだ。そして、立派になりたいという言葉すら、それからぼく自身を遠のかせる。
入院中に、友人から、継続就労支援A型の紹介があった。ぼくが、自殺しようとしたにも関わらず、ぼくは見捨てられていなかった。
ぼくは、退院したから、面接に行くことが出来る。友人のお父さんも一緒に来てくれるとの事だ。
それが、結果的にどうなるかは、未来の事だから分からないとしても、ぼくは、面接に行くことに決めた。
それが、結果的にどうなるかは、未来の事だから分からないとしても、ぼくは、面接に行くことに決めた。
入院前に、救急病棟で行われた措置の跡が腫れている。
すぐに消えて無くなると思っていた。