2019年10月03日

彼岸花

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これもボツ写真。なかなか気に入った感じに撮れませんが、一応成功写真もあります。ここにはアップしませんが。

彼岸花って、子供のころからなんですが、ぼくにとって一番綺麗な花です。大人は気持ち悪いとか言っていましたが、どう考えても綺麗だと思いました。たぶん、縁起とか、そういう迷信から、この花は気持ち悪いということになったのだと思います。子供のころは、この花を、変わったチューリップだと思っていました。同じユリ科だから、似ていると言えば似ているのです。球根から生えてきたり、茎の部分とか。
今年は、この花が咲くのが遅くて、今も沢山咲いていますが、ぼく個人は、萎びた彼岸花が一番好きです。見ごろが一番良いという人は多いかもしれませんが、ぼくは見ごろを外したころが一番良いと思っています。

もう体が限界にきていて、明日も明後日も、写真とか撮る体力がありません。今、猛烈に体の調子が悪いです。だから歩くことは極力避けています。ざっと見て、必ず成功させる必要があります。失敗しないこと。これは失敗ではありませんが、まだ何か違うという気がします。
posted by 超画伯 at 21:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 写真日記

ものの見え方 絵画→写真→映像

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一応申し上げておくと、ぼくは絵を描く上でのアンチテーゼとして、写真や映像を掲げていました。理由は、未だ解明されていない視覚というものを探求する上で重要な意味を持つからです。人間が最終的に視覚を感じるのは脳なわけですが、処理や、さまざまな揺らぎ、また記憶も含めてのものであり、ある種の超客観的見え方である、写真というものが本当に正しいものなのかに疑問を持っていたからです。果たして、その登場以前、人間は物事を写真のように見てきたのか?ものの見え方は、写真に洗脳されているのではないか?
謎に満ちた視覚というものを考えることは、それはそれは難しいものでした。

人間は便利な方向にツールを変化させてきました。例えば、人物画、風景画等は、いわゆるリアルな表現をするのであれば、より新しい技術である、カメラのほうが合理的であり、正確性も高いものだと考えられています。そもそもカメラそのものは古く、ピンホールの原理などは紀元前から知られており、より現在のカメラに近い原理を持った、カメラオブスクラなどは、15世紀ごろには、芸術にも取り込まれ、活用されるようになりました。それは、いわゆる遠近法の完成を後押しするものでした。今のカメラに、フィルムやセンサーが無い状態で、撮影は出来ず、投影は出来るといったものです。
その原理に加え、フィルムなどの媒体を加えたのが、現在のカメラです。フィルムやセンサーに投影された像を焼き込み、それを紙媒体等に出力します。現在では、モニター等が最終出力であることが多くなりました。モチーフの投影の後、それになぞって描くということも必要無くなりました。
光学レンズには、歪曲収差などの収差が存在するため、厳密には遠近法とは異なりますが、合理的で説得力があり、なんとなくですが、遠近法の完成形のようなものとなり、視覚を探求することそのものは、芸術の中心から外れていったのではないかと思われます。もちろんキュビズム等の運動はありましたが、ぼく個人が思うのは、それは視覚というよりは触覚的意識が強いものではなかったのだろうか?という疑問が生じました。

まずもって、遠近法は、間違いなく視覚的に間違いであることは疑いようがありません。というのも、遠近法では、この世界に、視覚的に平行線が存在することになっています。これを間違いだと、多くの人は気が付いていましたが、平行線には説得力はありました。何故なら、触覚的、物質的には、平行線という概念は存在するからです。人間には、視覚と触覚を分けて考えるのは、なかなか難しいことなのです。ですが、視覚的世界を少し違う目線で見てみると、この世界は歪みに満ちていることに気が付きます。視覚は、物質的な平行線を見た場合、距離的に、その左右に対してパースがあるのであり、よく見ると、樽型に歪んでいることが分かります。周辺のピントはボケているので、線は広がりを見せ、意識づけによっては、糸巻型に歪んでように見ることも可能です。脳が、どのように見て解釈するかが重要なのです。更に、視覚的にはっきり見えている部分は少ないため、広く認識するためには目や首、体を動かす必要があります。これが無ければ視覚というものは成り立たないわけです。視覚は、一瞬で世の中の像を認識しているわけではなく、時間も要します。つまり、動画的要素も含まなければ、人間は、この世界を認識することができません。
様々な要素はありますが、少なくとも、絵画が写真に取って変わられる必要は無かったわけです。

人間の視覚は、生態学的な視覚とも言えると思います。そのため、動的なわけです。なので、写真よりも動画のほうが、そのメカニズムに近いと言えます。ですが、動画と言いますか映像は、かつては活動写真と言われたように、実は写真そのものです。
現在の35mm判の写真は、そもそもは動画用の規格で、それをスチルカメラ用に転用したものです。あの長大なフィルムを短くして、横に置いたものがそうです。そう考えると基本的に写真と動画が非常に近い存在だということが分かりやすいかもしれません。誤解のないように言いますと、映像のほうが写真より先というわけではなく、それ以前の主流は、大判写真だったわけです。たまたま生まれた35mm判ですが、大判より遥かに低画質ながら、コンパクトで合理的だったので、その名残で現在でも主流のフォーマットです。脱線しましたね。。
動画は、連続した写真を流すことで、写真が動いていると錯覚させる装置なわけですが、おそらく人間の視覚には、そのような仕組みはありません。視覚は、沢山の写真を撮っているわけではないと思います。

ぼくが、このことに気が付いたのは二十代前半の話で、ゆえにそれらを絵画に反映させようと思いました。この時期は、絵を描いてはいましたが、色々と研究をしたのは、写真や映像だったように思います。
こういった経緯からですが、ぼくはもしかしたら、写真や映像をそれなりに理解したうえで、その世界に入ったとも言えるかもしれません。
残念なことに、芸術というものには流行りがあり、今視覚の研究をしても、それは評価されません。個人でそれをすれば良いという方もいるかもしれませんが、そうなるとじり貧ですし、それこそ他者のマウンティングも酷いものでした。いわゆる社会的ストレスも含めて断念したわけです。そもそも、社会との接点すら無くなってしまいます。自分自身の存在の危機です。
特に現在の芸術の価値というのは、それがお金になるか?政治的に何かを動かせるかという方向が強く、政治、経済に支配されがちです。というか、それらの奴隷と言えるかもしません。実は、それほど尊いものではありません。社会的にも、個人的研究をするのも難しい状況です。一言「意味が無い」で終了といった感じでしょうか?なので、本来重要な、独立したルールの元で創作を行うというのは難しいのです。実のところ、今という時代を生きるのは、思い描く理想では成り立たないという。。それでもやれ!とか言う人もいますが、そういう人に限ってセコい事ばかりしているものです。カッコつけているだけなわけです。人にどう見られるかという。

解明出来ないことに時間を費やす事は、非合理的と現代の社会では受け止められてしまうかもしれません。ですが、本当は、それを追うことは、錬金術的な意味合いを持ちます。金は出来なくても、副産物として色々なものが出来、この社会は発展しました。現在では、科学という手法が主流ですが、それ以前の世界を進化させてきたものとして、錬金術は存在しました。
たぶん、視覚の探求というものはそれよりも深いもので、本来、多くのイマジネーションを生み出すもので、世界の見え方を変えうる力を持つものだと思います。解明されないからこそ、無限のイメージを創り出すことが可能で、それは永遠の課題でもあります。
もっとも、今の衰えたぼくには、それを考えるだけの力がないというのもありますが。。
次世代に、この視覚を探求する時代が、再び来ればなと思ったりします。
posted by 超画伯 at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 写真日記