2019年08月03日

フェイスブックは史上最悪のSNSだと思いますが、同様にコミュニティーアートは..

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久々にFBを見ることになりましたが、やはりあれは最悪のSNSですね。皆が周りを意識して自己のイメージを上げるために、固定化したイメージを垂れ流し続けています。固定化したイメージというのは、”良いイメージはこういう事”という、過去に誰かが提示したイメージの中で、比較的多くの人の賛同を得られるイメージが委縮して、さらに固められたイメージの事を指して言っています。そのイメージというものは、如何に自分が素晴らしいかということを演出できるものである必要があります。そうでなければ、不特定多数に認められれる事もありません。何故なら、それを後押しする人たちも、同様に周りから認められる必要があるからです。

つまるところ、そこに新しいイメージなどなく、コピーのコピーしかないわけで、はっきり言えるのは、多様な個性というものは、そこで消失されるという事です。
色々な政治的主張もあるかもしれませんが、それは基本的に知性に沿ったものでもなく、他者の意見をスピーカーのように述べているわけで、自分がありません。
自分が無いということで、没個性のキャラクターを、大勢が演じ、その中でも下品に自己アピールする面倒くさい人間が、その中に架空のヒエラルキーを作っているのにすぎません。"良いイメージ"の幅は、限りなく少なく、多くの人は、その範疇で動きます。FB等は、年齢層が高めなのか、古臭く、”意識高い系”的な考え方が未だに支配的に見えます。
似たような意見しかないのであれば、そこには権力闘争が発生しますし、面倒くさい人間が、”いいね”を稼ぐために、色々な策を労するわけです。
もう一つ言えば、それは地方において、更に顕著に表れているように思います。

そこに生じるのは、多様性の消失以外の何物でもありません。


もう一つ苦言を申し上げると、外で展示しているアレです。コミュニティーアートとかいう。
外で展示することそのものには問題はないでしょう。問題としてあるのは、FBと同様の空間を、”アート”という名を借りて、公共の場で繰り広げる事にあります。
一つの問題としてあるのは、そこには政治的意思が絡むということ。名目上、そういうものは地域貢献であり、それは住民を満足させること、更に彼らの意見を聞くことも含まれます。
芸術的意見としては、そういう意見は、実のところ大した意味を持たないのかもしれません。何故なら、彼らは、その芸術的アイデアに特化しているわけではないのです。
ただ、そこでは最悪の民主主義が繰り広げられることにもなります。当然ながら、住民の意思に反するものは排除されるわけですし、回数を重ねるごとに、住民は、作家の意思をコントロール出来ることを理解していきます。そして、そういうものが、彼らにとってのアートなわけです。
現象として起こることとして、意に沿わないものは排除することが可能でありますし、それを理解した作家は、住民の意見に支配されることになります。持続的に、そこで発表するためであり、多くの”いいね”をもらうためでもあります。
行政は、住民の苦言に対して、敏感でなければなりません。よって、その中から住民の意に沿わないものは、排除していくことになります。

結果としては、そこに表現の多様性の消失が発生することになります。

あらゆるイメージの劣化と、知性の消失がそこに起こるわけで、そこに新しい意見など存在しないでしょう。
個人的には、あらゆる分野で、そういう事が起こっていて、地方においては、劣化しているのであり、打開策を見いだせない状況に陥っているのだと感じます。
残念ながら、地方においては、お山の大将のような人が、そこを仕切っているのであり、専門外の事に関しても、”自分のほうが理解している”と錯覚していたりします。
つまるところ、彼らの存在は反知性だと言えると思います。

残念なことに、日本はそういう社会といいますか、そういう村社会を形成していると思います。
そうなるならば、当然のように言えることは、"日本にアートなど必要ない"という言葉です。自分たちと違う意見も、新しいアイデアも必要が無いという意識が、社会の中に刷り込まれている感じです。
社会が委縮し劣化するカラクリと、何か関係あるかもしれません。

周囲の目に支配されないのであれば、公共の場での展示も有りでしょう。無いのならば、「○○のため〜」とか嘯くのであれば、その○○のためにも、身を引くべきでしょう。
なぜなら、彼らがやっていることは、反知性の推進であり、それこそがアートなのだと啓蒙しているわけですから。

posted by 超画伯 at 10:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記