2019年05月15日

どうでも良い風景だけど、日常でもない

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今の時期だと、このような日の出時刻は、まだ五時台です。
先日は一睡もできなかったため、この光景を見ることができましたが、まぁ住宅地です。
古くもない家があって、電線があって、一般的な題材とはならないような写真なわけです。
自分:「朝、自宅から住宅地を撮った」  A:「ふーんつまらないものを撮るんだね」
言葉に直せばそういう感じでしょうか?
そう言えば、作品としての写真を定義してきていませんでした。
個人的には絵が描けるのだから、写真を作品として定義するとは考えもしませんでした。
というか、作品そのものを定義する事自体よく分からないことですが、何となく、これは作品、これは只の記録、これは何か知らないけどシャッターを押したら撮れたものという感じでは見ていると思います。
というわけで、今の自分の状態は、ただの機械好きであって、別に写真好きとかそういうものでもないわけです。

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どうでもよい風景というのは、つまり見慣れた風景で、受け入れてしまった風景なのだから、これといった感銘も無く、特別なものでもないわけですが、だからこそ、こういう一面は見てこなかったわけです。
世の中綺麗な写真が溢れかえっていて、綺麗な山、海、人、動物など、そういった写真がもてはやされています。
個人的には少々食傷気味で、windows10を起動したときに出てくるような綺麗な写真は、もう見飽きてしまいました。
そういったものを撮ったとしても、ぼく自身も満たされないわけです。
ですが、多くの人はそれを望むのかどうかは分かりませんが、そういう写真は、毎日アップされていて世界で何億と上がってきているのではないかと想像してしまいます。
たぶん、毎日、PCやスマホに上がる写真を見て、皆そのように撮りたいと思うようになったのかもしれません。

昔の写真を見ると、少なくともうちにはそういうものは無くて、なんかの記念日に、家族で並んで撮ったり、どこかに行ったついでに撮られた写真とかそんなのばかりです。そして、それは家族だけで見るものでした。時々親戚に見せる程度でしょうか?
写真の目的は変わったのでしょう。

現代の写真の目的は、孤独という苦悩からの解放、そして共感を得るということから成り立っているのかもしれません。
だから、人は皆に認められたいと綺麗な写真をアップします。そして、何か特別なもののように扱うわけです。
自分という人間は素晴らしいとアピールすること、そして周りの人たちも同じようにすることで、共感を得て、その一体感に一喜一憂する。
ネットの中には、孤独という苦悩、そういったものを解消するツールが溢れています。

ただ個人的には、そういったことで安心感を得られない自分を感じています。
そういうツールがあったとして、実際にはそれに救われていないかのごとく病人は増えたと感じています。

posted by 超画伯 at 22:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 写真日記