2016年06月07日

理想の世界

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自由という言葉は良い言葉です。当然ながら、ぼく自身も自由を求めています。
ここで、なぜぼくが映像作家になったのか書くことにします。それは、一種の敗北からの脱出でもありました。きっかけになったのは、今日的に地元岡山で行われはじめた、コミュニティーアートとも関係があるかもしれません。
ご存じの通りですが、こういったものに参加する文化人には、圧倒的に左派が多かったのです。彼らもまた、理想主義者であり、町おこしという善行と自己の生きる道として、そういう運動をはじめたのかもしれません。
作品は、それに免疫のない一般人にも公開されます。ここに、一種のポピュリズムと言いますか、囲われた空間とは異なる場所での開けた民主的な空間での自由な競争がはじまりました。
こういった空間に、内向的作品は好まれることはなく、問題視されることになります。当然ながら、この問題視と思考というものには密接な関係があって、それによって生まれる疑問には、明らかに価値があるのだと思いますが、残念なことに問題視されるものは競争に敗れることになり、消え去ることになることは目に見えていました。既に、自己責任論や勝ち負け組論は誕生しており、要するに、民主的な空間で理解を得られないものは努力が足りないのだと一刀両断される風潮の中、当然ながら一般とは異なる異質なイメージを作り出す人々は消えていきました。そして、発足した当事者たちも”淡々としたイメージ”を推奨していくことになりました。
更には、そういった発表の場の多くは無料で、街からは、いつの間にか発表のための治外法権的なギャラリーのような空間は競争に敗れて消えていくことになりました。
このとき気が付いたことですが、これは一種のシーンなのかもしれませんが、内向的世界を消し去るための運動でもあると直感的に思って、もう一つの閉鎖空間である、映画館や映画祭を目指して映像に転向したということがあります。これは、表現者としての自分を生かすための敗走でもありましたし、方針として精神年齢を非常に抑えた映像を広告業界から求められるような生い立ちを持った日本ではなくて、最初から海外を目指すというリスクの高いものでもありました。
結果としては、ぼくは何とか作家としては生き残ることが出来ましたが、元いた場所では、同期の人たちは消え去り、ポピュリズムに走る人だけが生き延びたという感じになりました。基本的な考えですが、そういう所から出てくるものはコミュニティーによる依頼に対するイメージであって、デザインのようなものでもありました。
ここに、知的格差のようなものが生まれることになったのではないかと思えます。
要望に合わせて分かりやすいイメージを作る→もっと分かりやすかったり、コミュニティーが良さそうに見える、コマーシャル的な作品を求められる→それに応じる→難しいものを考えたくない人の意見がまた出てくる→それに応じる・・・そういうことの繰り返しで、気が付けば、何も考えなくて済むようなものが作られ、そういったものはコマーシャル的でTVでもキャンペーンしやすく、苦情も発生しない・・子供も見れなくてはならないものは、対象年齢を下げる必要も出てくる→知的水準を子供に合わせたイメージを多くの人がアートと認識することになって、それが一般化する・・最終的には、それが社会の常識となって、治外法権的な芸術空間は崩壊して、広告的イメージだけが生き残る世界に・・こういった状況は、多くのジャンルで見られ、当然ながら思考を失った集団から、何か新しい発想を求めることは不可能で、囲い込まれた世界の競争力は衰退していくでしょう・・国など良い例です。
それが、ここ十数年で見てきた世界で、去る人からは「こんなはずではなかった」と何度も聞くことになりました。
これが、ここ岡山という地域で行われた実験の結果でもありますし、新自由主義的な自由競争の結果でもありました。
ぼくは、別の実力の世界を求めて海外を目指しました。実態のある表現者としての真の実力を身につけるべく・・そして心の自由を求めて。

posted by 超画伯 at 04:54| Comment(0) | TrackBack(0) | マウス画伯関連
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